劇場版スタァライトにおける棺のモチーフ、および花柳香子について
一日ほど遅れてしまったが、5月14日はアニメ版 少女歌劇レヴュースタァライトにおけるオーディション開始日であり、また劇場版におけるワイルドスクリーンバロックが開始された日でもある。(また、華恋とひかりが幼少期に観劇した戯曲スタァライトの公演日でもある)
それに記念して、本noteではこの「5月14日」という日付をもとにオーディションに対して強い執着を周囲に見せ、またワイルドスクリーンバロックにおいてはその口火を切るなど、大場ななとはまた違った形で本作の「裏の主役」と言えるほどの活躍を見せた舞台少女花柳香子に関する考察を、劇中に頻出するモチーフへの考察をとっかかりに書いていきたい。
以下、本noteの構成。
1. 劇場版スタァライトにおける棺のモチーフ
劇場版スタァライトにおける「棺」のモチーフに関する考察、およびそれが物語において持つ意味に関して考察する。
2. 決起集会における棺のモチーフ
前節において触れた「棺」のモチーフに関する考察を元に、決起集会のシーンに関する考察、および映画前半における花柳香子の心情について考察する。
3.華恋の再生産シーンにおける棺のモチーフ
再生産のレヴュー冒頭シーンにおける華恋のシーンの考察と、そこに登場する棺の持つ意味について考察する。
4. 怨みのレヴューにおける棺のモチーフ
ここまでの考察を元に、怨みのレヴューにおいて「棺」のモチーフが登場していたのではないか、という仮説を立て、それに合わせて映画後半における花柳香子の心情について考察する。
1.劇場版スタァライトにおける棺のモチーフ
そもそも、レヴュースタァライトという作品はアニメ版の時点から役者という存在を「舞台に立つたびに死と再生産を繰り返す」存在として描いていた。
「アタシ再生産」というワードにもある通り、本作の大きなテーマのひとつに「死と再生」がありますから、そこはTVアニメの最初から最後まで一貫していると思います。役者は舞台に立つたびに「死と再生」を繰り返す存在として描いています。
そこに加えて、再生産総集編と新作劇場版を繋ぐ「舞台少女の死」というキーワードが用いられるなど、本作には非常に「死」にまつわる描写が多い。それは作中において「私たち、もう死んでいるよ」というセリフや、噴き出る血と共に描かれる登場人物たちの死体そのものといったショッキングな表現で描かれ、さらに本作で活用される背景モチーフによる補強という手法によって、「死」という要素を印象づけていた。
そうした描写の中でも、今回特に自分が注目したいのが、死と密接に関係する「棺」を用いた描写だ。
・皆殺しのレヴューと棺
本作において登場する棺のうち、分かりやすく棺として真っ先に上がるのは、終盤において死亡した華恋を運ぶアタシ再生産列車の上に備え付けられた、T字型のポジションゼロだろう。だが、ここでは時系列に則り、作中で最初に棺として提示されたと考えられるものをチェックしたい。それが何であるかと言えば、皆殺しのレヴューにおいて登場する「逆さまの星摘みの塔」だ。
そもそも星摘みの塔は本作における最重要のモチーフで、その形象は作中の至るところに登場する。しかしながら、皆殺しのレヴューにおける塔の登場シーンは明らかにその塔を「逆さま」に見立てたものが多い。そして逆から見た時、星摘みの塔は西洋式の棺にそっくりである。
逆さまの塔には他にもタロットカード的な意味合いとして「再生」などがあり、ひょっとするとそうした意味もあるかもしれないが、とはいえこの皆殺しのレヴューの目的が「自分たちの死にすら気づいていない舞台少女たちを一度死なせる」舞台であり、実際に彼女たちの死体が描写されることから考えても、そのショッキングなレヴューの幕開けとして、棺桶になぞらえた描写がなされた、と受け取ってもおかしくはないだろう。
この逆さまの塔は他にも登場し、それぞれ狩りのレヴューにおける照明やキリンが燃えながら落下するシーンなど、登場人物に死を突き付ける(あるいは押し付けられたその死を切り捨てる)シーンに登場している。いずれにせよ、これらのモチーフは死を強調する演出だろう。
2.決起集会における棺のモチーフ
・可燃と不燃のツタンカーメン
さて、舞台少女の死を告げる皆殺しのレヴューに続いて棺が登場するのは、そこから華恋の回想シーンを挟んで、第101回スタァライト決起集会のシーンである。
ここで登場する棺が何かといえば、決起集会の入り口に配置されたツタンカーメンの黄金の棺桶だ。
ツタンカーメン像は古代エジプトで信奉された死と再生を重視する死生観を象徴するものであり、同時に死者を保管する棺でもある。そうした意味で、これもまた死と再生、棺を演出するモチーフといえる。
…とはいえ、これだけでは単に画面に棺桶状のものが映っただけだし、さらに言うならアニメ版でも登場したアイテムであるツタンカーメンをファンサービスとして出しただけ、と受け取ることもできる。なんにせよ、これだけではモチーフとして見るには弱い。
しかしながら、このツタンカーメン像が再び画面に映るシーンが、とあるキャラクターの描写に大きく関わっていることから、これもまた舞台少女の死に関わる棺として大きな意味を持っているのではないか?と受け取れるシーンがあるのだ。それがどこかといえば、この決起集会において,、他の舞台少女たちが前を向く中で、唯一背を向けて去っていこうとした花柳香子のシーンである。
この決起集会においては、第101回スタァライトの脚本のセリフを通して舞台少女としての覚悟が語られ、それに合わせて舞台少女たちの再生産が描かれる。しかし、そのシーンにおいてただ一人、花柳香子は決起集会を去っていこうとしていた。その彼女が足を止めた場所こそが、この棺の前だった。
このツタンカーメン像は決起集会の入り口に配置されており、左右に配置されたゴミ箱には可燃・不燃の分別の張り紙が貼られている。
これの意味するところを考えると、ここでいう「可燃・不燃」とは舞台少女が前に進み続けるために燃え上がる、「燃料」、あるいは情熱(劇中においては主にトマトで示される)を持っているのか?ということを示してると思われ、それは決起集会側の右が可燃、決起集会の外へ向かう道(つまり去っていく香子が向かう先)の左側が不燃となっていることからしても分かりやすいだろう。つまり、この可燃と不燃に挟まれたツタンカーメン像は死を迎えた舞台少女たちを自身を燃やして再生産できる「可燃」なのか、それとも死を迎えたまま舞台を去る「不燃」かを分ける分岐点であり、そして舞台少女たちは右側の決起集会へと向かい、逆に香子はその線を越えて、舞台の世界から去ろうとしていたことが分かるというわけだ。
・劇場版前半の花柳香子の怒り
そもそも、本作序盤において花柳香子は極めて大きな感情の発露を見せていた。新国立第一歌劇団への見学に浮かれる一同に対して冷や水を浴びせ、5月14日というオーディション開始日時を引き合いに、「トップスタァになることを諦めたのか?」という疑念を周囲に投げかけ、西條クロディーヌにくってかかり、また電車内のシーンでは双葉と距離を取っている様子も見受けられる。
こうした彼女の態度は、本作の後半で「石動双葉が断りもなく進路を新国立に決めた」ということへの怒りから起こっている態度、ということが分かる。新国立への見学をやめると言い出したのは双葉への当てつけであり、またクロディーヌに対してくってかかるのも双葉に新国立への進路を勧め、二人が離れることになるきっかけを作った、という逆恨みである。その上で、そうした怒りを「ウチが一番しょうもない」と自嘲するなど、そうした態度が悪あがきだと理解している節もある。
だが、そうした双葉やクロディーヌへの怒りは比較的分かりやすい一方で、彼女がオーディションに対して強い思い入れを持っている、というのは、すぐには飲み込みづらい。トップスタァを目指すことと、双葉の進路に当てつけをすることは直接的には繋がらないし、花柳香子が誰よりも突出してトップスタァに拘りを見せていたキャラクターか?と言われると、アニメ版の時点では必ずしもそのような印象があるわけでもない。
しかしながら、彼女がメインキャラクターの中で唯一「舞台から去る」という進路を選んでいることを考えると、少々話が変わってくる。
・花柳香子という舞台少女
花柳香子は千華流家元の孫娘であり、その家を継ぐという進路を定められた舞台少女だった。そのことについて、香子は進路相談で「何度も逃げようと思ったけど、新しく始めるという気持ちで挑みたい」と語っているなど、自分が進むべき進路については受け入れている様子を見せている。
だが、一方で「この学園だから気づけたこともたくさんあった」と語るように、彼女が星翔で過ごした時間の中で発生した変化もある。それは、それまで彼女の後を無条件で付いてきてくれると思っていた石動双葉に対して、自分は付いてきてもらうに相応しい存在であるべきである、という自覚の芽生えだ。
アニメ版6話、二人の花道において、約束のレヴューを演じる前の聖翔音楽学園での香子は、あまりトップスタァとなるために努力を重ねている方ではなかった。1年生の際にトップ9人の中に当然のように入り、女神役を掴むなど、その生まれついての華やかな才覚を見せているが、むしろ自身の持って生まれた魅力を過信してしまったのか、2年の5月次には女神役を選ぶための選考オーディションに落選してしまうなど、落ちぶれた様子を見せている。
それに対して、聖翔音楽学園で舞台の世界に触れ、舞台少女として再生産された双葉は、西條クロディーヌの指導の下で秘密特訓を重ねて上達するなど、熱心に舞台への情熱を見せている。
オーディションで落選して落ち込んでいるにもかかわらず自分を慰めてくれず、そのうえ自分ではなく他人に教えを乞う双葉の姿に怒りを覚えた香子は、双葉と痴話喧嘩を重ね、さらに気を引くために狂言として京都に帰ると言い出すなど、アニメ版における香子の動向は舞台少女としてはあまり褒められたものではなく、実際天堂真矢の語る「追われるものとしての宿命」という共感に対しても生あくびで返している。
しかし、そこから「約束のレヴュー」にて舞台少女としての覚悟を語る双葉の言葉と、
アタシだって、香子のファンのままじゃ嫌なんだよ…!
一番近くでお前と一緒にキラめきが見たいんだ、香子!
という追う者としての覚悟の言葉を受け、それに対して香子も
追ってくるもののために、応援してくれる人のために…
ウチは最高の自分で居続けんとアカンのやね
と、追われるものとしての覚悟の言葉を口にする。そして、香子は涙を流しつつも「演技」によって双葉に不意打ちを浴びせ、やっと双葉が止めてくれたと喜びを見せる。そして再生産された香子はそのキラめきによって双葉を見惚れさせ、上掛けを落とし、
見とき、ウチかて舞台少女や。
必ずもう一花咲かせて、ギャフンと言わせたるわ
と啖呵を切る。このように、アニメ版において双葉と香子の舞台少女としての関係性は、双葉が香子を追いかけるために努力し、その努力に応える形で香子もまた最高の自分を目指して努力をする、という、追い、追われながら前へ進んでいき、そうして二人で共にいつか最高のキラめきに至るものとして定義されている。
しかしながら、この安定した関係性に劇場版では漬物石くらいでかい一石が投じられる。それは、香子の家元襲名という進路である。二人がともに舞台にいる限り、双葉と香子は追い、追われながらどこまでも走っていける。しかし、香子が舞台の上にいられる期間がいつまでもあるわけではない。
つまり、「必ずもう一花咲かせて見せる」と啖呵を切った香子が舞台少女として過ごせる時間、そのタイムリミット自体が卒業を控えた中で差し迫っており、それに加えて双葉が京都に戻るのではなく、東京に残って新国立歌劇団への入団を進路に選んだことも、焦りに拍車をかける。香子が舞台に立てる理由は、後を追いかけてきてくれる双葉の存在があればこそだ。ならば、日本舞踊の世界に戻ったとしても、そこで双葉が自分を追いかけてくれるなら、香子としてはこれまでと変わらず、新たな世界で走り続けられる。しかし、その双葉が自分ではなく新国立歌劇団を進路に選び、自分と離れてしまうなら、香子は追われるものとしての宿命、常に最高の自分でいなければならない理由を失い、たった一人で新たな舞台に立つ恐怖と向き合わねばならない。
そのため、香子は双葉を振り向かせるには、新国立歌劇団の放つ以上のキラめき、双葉に約束したトップスタァとしてのキラめきを双葉に見せ、それによってもう一度追いかけてもらう必要がある。しかし、あと1年以内でそれほどのキラめきを見せるのは、かなり難しい。だからこそ、彼女は抜け道としてのキリンのオーディションが再び開催されることに対して執着を見せていたのだ。皮肉にも、あの非現実的なオーディションこそが、香子にとっては双葉を振り向かせる、もっとも現実的な選択肢となっていたわけである。
・降りても舞台だ
さて、そうして始まったと思われたオーディションだったが、しかしそれはオーディションではなく大場ななのスパルタ抜き打ち試験であった。
皆殺しのレヴューにおいて大場ななは多勢の舞台少女たちに切りかかり、大立ち回りを演じてその上掛けを落としていくが、実はこのシーン、彼女が歌う歌詞と戦闘の状況、切り結ぶ相手がリンクしている。具体的には、多数の舞台少女を相手に大立ち回りを演じるシーンでは
キラめきがどうした 退屈だ その程度か 口ほどにもないな
と、周囲を煽り散らし、それっぽい言葉を口しつつも今は今はと言い訳を重ねるの純那に向かって剣を投げつけるシーンでは、
言葉だけじゃ足りないのわかってる?
新たな舞台を目指して高い目標を目指しつつも、しかし友人に対して心残りがあるために前を見据え切れていない双葉とまひるに対しては
ねぇ本気出そうよ
そして天堂真矢とレヴューに満足し朽ちて死んでいくところだったと後に本人も語る西條クロディーヌが、天堂真矢の常在舞台の覚悟を理解ができず、大場ななとの問答に困惑して横から口を挟み、「喋りすぎ」と言われてしまうシーンでは、
美しきマドモアゼル そこに野生はあるのか
とわざわざフランス語を入れてまでクロディーヌをヘイお嬢さん、牙抜けてまっせと煽るなど、醜態をさらした相手を歌唱の力で徹底的に煽りまくっている。こいつほんま…。
そして、待ち望んでいたオーディションが始まったと勘違いして挑みかかるも、真っ先に上掛けが落とされてしまった香子のシーンにおいて、その場面に被せて流れる歌詞が次のようなものだ。
降りても舞台だ
香子が星翔で過ごす日々の中で自覚した自分が前へと進むことができる理由、それは双葉が追いかけてきてくれるからこそ、相応しい自分でなければならないという自覚だった。しかし、双葉は星翔で過ごす日々の中で、新国立を目指すという新しい道を見つけ、自分の足で歩いて行った(と、少なくとも香子は思っている)。それに対して香子は怒りを見せるし、せめて約束を果たす、あるいは振り向いてもらうためにオーディションという抜け道でトップスタァの輝きを目指すが、それもまた叶わぬ願いとなってしまう。
そうした、双葉への怒りと自身のしょうもなさへの自覚、そしてオーディションへの一縷の望みが絶たれ、どうしようもなくなった状況で迎えた場面こそが、先述した決起集会の場面だったというわけである。
・世界は私たちの…
さて、再び場面は新国立見学の夜に開催された第101回スタァライト決起集会へと移る。皆殺しのレヴューによってオーディションへの望みが絶たれ、バイクの前で待てども双葉は来ない。。
第101回スタァライトの脚本を受け取った周囲が熱を燃やす舞台の世界からも、香子はもうすぐたった一人で去らねばならない。そんな彼女は、周囲の情熱に文字どおり背を向け、舞台を去ろうとする。
しかし。香子が決起集会から去ろうとした瀬戸際、B組が星摘みの塔の舞台セットを立ち上げ、照明を付ける。その輝きに99期生たちは大いに歓声を上げるが、その外れで香子は、ただ塔のキラめきにまっすぐに視線を奪われ、ぽつりと声を漏らす。
綺麗…。
舞台から去ろうとしていた香子を立ち止まらせ、振り返らせたのは、舞台装置の照明、舞台そのもののプリミティブなキラめきだった。それは、香子が舞台に立っていたのは、双葉との約束だけでも、日本舞踊の家に生まれた運命だけでもない、ただ純粋に、彼女もまた舞台のキラめきに魅了され、その舞台に立つために塔を登り、彼方の星を目指す「舞台少女」だったことが示される。
夢を振りまくのよ 夢を忘れないで
未来は未知数 さあ カーテン開いて
私たちは舞台少女 生まれながら舞台少女
勇気乗せて 指を伸ばし
優しく 弧を描く
私たちは舞台少女 真ん中には常に愛を
希望なぞって 足を前へ
揺らがないように
世界は私たちの 大きな舞台だから
舞台少女心得のメロディラインを用いた決起集会シーンのBGM、「世界は私たちの…」と共に描かれる、99組の決起と、舞台少女たちの再生。
そして舞台を去ろうとした花柳香子もまた、不燃の道へと去るのではなく、可燃の世界、情熱のトマトを口にする道へと飛び込む。舞台を降りるために舞台に上がる、その覚悟を見せて。
つまり、皆殺しのレヴュー→決起集会のこの一連のシーンにおいては、大場ななの登場とともに棺桶のモチーフが登場して舞台少女たちの死が告げられ、そして決起集会のシーンにおいては、背を向けて去る香子のすぐそばに配置されたツタンカーメンの棺桶が、彼女が舞台を去る、そのすんでのところで舞台そのものに救われ、再び情熱を灯したことを示唆しているのではないだろうか、というのが、この一連のシーンに関する自分の考えだ。
3. 華恋の再生産シーンにおける棺のモチーフ
さて、こうして舞台に立つ覚悟を決めた花柳香子は、言いたいことが山ほどあった西條クロディーヌに対して啖呵を切り、駆け付けた石動双葉に対して斬り合い、セクシー本堂にて本音を晒すように水を向け、そして清水の舞台での対決の末、舞台を飛び降りた先でようやく心残りを解消する。
このしょうもない、しかし美しいレヴューにもまたとある棺が登場し、これが香子の心情を決定的に補強しているのではないか、というのが本noteの結論部分なのだが、この棺について触れる前に、その前提になる、本作の最後に登場する棺について触れておきたい。それは一旦シーンを最終版まで飛ばした、華恋の再生産シーンにおける棺のモチーフについて触れたい。
・華恋の再生産シーンに登場する棺とその意味
東京タワーにて死者として横たわる華恋に対し、ひかりは「舞台で待ってる」という新しい約束を贈る。そうして舞台から投下された華恋は、T字型のポジションゼロに姿を変え、列車に乗り込み、砂嵐へと去っていく。
このシーンにおいて登場する棺は、いわずもがな華恋自身が姿を変えたポジションゼロであるが、同時に列車の車内にも、死体となった華恋が運ばれていることが分かる。いわばあの列車は、華恋を運ぶ巨大な棺桶だったわけだ。
その列車の中では、それまでの華恋の過去の全てが焼却され、ひかりとの約束の手紙もまた燃やされ、その熱量によって推進力を得た華恋は運命の舞台へと戻り、ひかりとのレヴューに再度臨むこととなる。
この一連の再生産シーンは、アニメ版から続く溶鉱炉のモチーフに則れば「自身を溶鉱炉に投げ入れる」シーンであり、同時に本作においては、自身を囚え続ける過去、古い肉体を焼き、その熱量によって新たなるトマト=血肉を吹き込むことで、棺の中から華恋が復活して登場する、火葬のシーンと言えるだろう。
過去に囚われ変わらないものは、やがて朽ち果て死んでいく。
だから、生まれ変われ。
古い肉体を壊し、新しい血を吹き込んで。
4. 怨みのレヴューにおける棺のモチーフ
さて、こうして本作における3つの棺の登場シーン、すなわち皆殺しのレヴューの死を告げる棺桶、決起集会の死と再生をつかさどる棺桶、そして華恋の再生産における過去を明日へと進むための燃料に変えるための火葬の棺からの復活を見てきたわけだが、ここまでのシーンを踏まえた上で、怨みのレヴューにおいて登場した棺について触れたい。
ただし、この棺はこれまでのモチーフよりもさらに棺から遠く、単なる箱といった方が近い。正直なところ、かなり牽強付会な気はするし、それ故にあくまで、目次でも「仮説」という形にしている。ただ、それでも前述したシーンとの関係も踏まえて、個人的にはアリなのではないか、と思っている見方だ。
あまり引っ張るものでもないので言ってしまおう。怨みのレヴューにおいて登場する棺とは、香子がラストシーンで横たわるトラックの荷台、その四角形に象られ、想い出の桜の花びらが敷き詰められたそれ自体が棺であり、このシーンは香子の過去と約束を燃やし、生まれ変わらせる「葬儀」なのでないか、という仮説だ。
この説に関しては、前節で述べたように華恋の再生産シーンが重要となる。華恋は列車という棺に横たわり、そこで過去の自分を象徴する想い出やひかりとの約束を燃やし尽くして、古い自分を焼き捨て、新しい自分となって進んでいくための燃料に変えていた。
では、このシーンにおける香子もまた、トラックという棺に横たわり、過去の象徴である桜を敷き詰め、新しい約束を胸に、双葉に看取られながら古い自分を焼き捨て、新しい自分…すなわち、花柳彗仙として生まれ変わるための燃料としていたのではないだろうか。
そもそも、怨みのレヴューにおける舞台は神社仏閣であり、そこでの香子は仏像やおりんなど、仏教・葬儀に関連する小道具を使いながら演じていた。これは、魂のレヴューにおいて真矢とクロディーヌの背後に十字架などの大道具が配置されていたのと同様に、このレヴューにおける死を示唆するモチーフだったのではないだろうか(ちなみに、魂のレヴューにおいても真矢の魂に火が付き、舞台全てが燃え上がる演出によって幕を閉じている)
こうした要素を鑑みても、あのシーンが「香子の葬儀」であり、そうして花柳香子という舞台少女を「燃やし尽くす」ことによって、香子が新しい自分として新たに歩いていく燃料となり、また本音を吐き出して香子を見送ることで、クロディーヌやひかり、まひるといった人物たちと同様、双葉も思い切り次の舞台へと飛び立つことができるのではないだろうか。
怨みのレヴューにおいて、香子は双葉に対して自身の思いの丈をぶつけ、舞台から飛び降りている。しかしながら、本作においては舞台から降りる、というのは必ずしもネガティブな要素だけではない。それは「清水の舞台から飛び降りる」という言葉にあるように、次の舞台へと向かう決断を示すことでもある。
そうした香子の行動に対して、双葉もまた、自分が舞台に憧れつつも、その目を焼くのは香子のキラめきであり、それに並びたいからこそ自分の道を行きたい、と語る。
そうして、もはや香子が送り迎えされずとも自立してどこにでも行けることを示唆する形でバイクが預けられ、そして二人の「追って、追われて振り返る」という関係性を示すトラックのサイドミラーは、割れたその破片となって役目を終え、香子の上掛けを落とすのに使われる。
そして、アニメ版においては重なり支えることで二人の互いに互いを支えある強い相互関係性を示していた桜の花びらは、たった一枚の自立した、しかしミラーごしに対等な2枚の花びらとして示唆される。
これらの要素はいずれもが香子が自分の道を生きていけるということを意味し、そうした香子への双葉の信頼と共に、怨みのレヴューは幕を閉じた。
・花柳香子と花柳彗仙
さて、そうして古い肉体を燃やし、生まれ変わった香子だが、そうした彼女の覚悟を描くシーンとして大好きなものがある。それは、ラストシーンにおける集合卒業シーンにおいて、一番最初に上掛けを脱ぎ捨てる舞台少女として、スポットが当たるのが香子という事実なのだ。
そもそも、香子は3月生まれの誰よりも幼い、4月生まれの双葉とは1歳近い年の差がある舞台少女だった。しかし、彼女は卒業後、日本舞踊の家元という誰よりも重圧がかかる役を務めねばならず、そして舞台に生きる皆とは離れ離れになることが定められたキャラクターだった。
しかし、ラストシーンの香子はそうした重圧を感じさせない爽やかな態度で、上掛けと星を空へと放る。
そして本編終了後のエンドロールにて、香子は京都にて12代目を襲名し、花柳彗仙の名を継ぐ。その名は美しき水仙の名を表しつつ、同時に彗星という、星々の海を自らの力で渡っていく、誇り高い星を意味する。
そんな彼女が描かれる姿は、いかにも伝統舞踊然とした和服の姿ではなく、どちらかといえばボーイッシュな衣装とバイクを背負った姿だ。
双葉から受け取ったバイクを背にした彼女はいつでも、好きな場所で向かうことができる。誰かのバイクの背に乗るのではなく、自分自身の力でバイクを運転して。双葉に託されたバイクは置物ではなく、彼女自身が運転できる足となって、地が続く限りどこまでも彼女を運ぶことができる。彼女は己の全てを燃やして生まれ変わったが、一方で「花柳香子」として生きてきた彼女の過去が消えたわけではない。過去のすべてを燃やして生まれ変わった華恋が、しかし運命のチケットを鞄に付け、スタァライトという言葉を己のものとして刻んでいたように、燃やした過去は消え去ることはなく、むしろ舞台に立つ理由として、己の原点として強く「背中を支えて」くれる。
そして、ふと会いたくなったならば、香子はいつでも双葉に会いに行くことができるだろう。ポジションゼロのストラップをぶらさげたバイクのキー、彼女の左手の薬指へと託された、そのバイクを駆り、テールランプを一筋の光のように残して、彼方の想い人の元へと。
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