【志考巡遊】とある大学教員の1日~私と世界の距離~
皆さんこんにちは。
人道支援家のTaichirosatoです。
【志考巡遊】
1000文字で届ける僕の新しい遊び方
自分の軸となる「志」
日々の思「考」展開
その頭の中を「巡」り
文字で「遊」ぶ
最近は、1000文字縛りも、志考巡遊でもなく、ただも妄想を言語化しているようになってきましたが、まぁいち素人の言葉遊びとして好きな人が読んでくれたらそれでいいなーなんて思いながら今回も書いていきます。
暇つぶしだと思って楽しんでもらえたらw
以前に書いたこの3つの短編記事。それぞれの点と点が「つながる」壮大な長編物語になったらいいなーなんて想像しながら構想を練っている今日この頃。一人で楽しんでいます。まだこの3本を読んだことない方も、既に読んだ方も今一度この3本を読んでから今回の投稿を読むと、じわーっとスルメイカのように味がでてくるかもしれませんね。お楽しみに。
<このストーリーに登場する人物は架空の人物ですが、内容は場所も時空も超えた事実をつなぎ合わせて物語を書いています。>
ー読むのに約20分ー
【志考巡遊】 とある看護大学教員の1日 ~私と世界の距離~
プロローグ
今回もよろしくお願いしますね。
時刻は午前11時20分となり、3限の開始時間ちょうど。
学生たちは席に着席し、バイトがテストがと私語に忙しくしている。
私はパーカーの青年、彼に軽く会釈をした。
青年、ぃゃ本来はパーカーを着た中年男性と表現するべき年齢であるはずなのだが、彼の雰囲気がどうしても中年男性のそれとは似ても似つかず、むしろ青年よりもさらに下のカテゴリにあたる少年のような笑顔とオーラを放っている。彼は私にニコッと微笑み返してくれ、ませてくださいよー吉井野先生!と、いつもの感じで意気揚々と学生たちの前へと進み話始めたのだった。
私自身は大学教員であるから、彼がこれから学生の前で2時間しゃべることでの人体への影響(渇き)は想像できるため、あらかじめ彼の為に登壇席の横に「おーぃお茶」を置いておいた。
ちっ、こんな奴と隣り合わせかよ。俺も随分ナメられたもんだぜ。
どこからか声が聞こえた気がしたので、私は両眉をくいっとあげ、ん?今なんか言いました?と彼に合図を送る。
いいえ、僕は何も。
私の合図に彼は気が付いたようで軽く首を横に振った。彼は持参したペットボトルの水ですこし口を湿らせてから、しゃべり始めた。
ちっ、わかってんじゃねーか。お前ってやつはよ。
まだどこかから誰かがしゃべる声が聞こえてきた気がするが、空耳に違いない。私は100枚と20枚、学年分より少し余分に印刷しておいたレジュメの残りをまとめ、トントンと机に2回ぶつけてから入口近くの席に腰掛けた。
私は持参ノートと濃紺色の1.0の水性ボールペンのふたを開け、ノートの左上に今日の日付と講師名をかく。パーカー青年の講義は先週に続き2回目で前のページも彼の授業内容が記されたページで終わっている。パーカー青年の講義が始まると濃紺の水性ボールペンも合わせるように、忙しなく働き始めた。
パーカー青年との出会い
パーカー青年との出会いは、正確にはいつだったか忘れた。
きっかけは看護学長からの紹介だった。
2年前の看護科卒業生の同窓会。ゲストスピーカーとしてオンラインでハイチから参加した彼のスピーチを学長聞き、私に話をつないでくれた。当時の私は、国際看護の講義を持てる臨床看護師を探していたので、ここの大学の卒業生であり国際NGOで活動している彼はまさにイメージ通りの人だった。私から彼に講義を依頼したところ快諾してくれたのだった。
それからというもの、彼と私は幾度となく打ち合わせを重ねることになった。講義の打ち合わせをしたかと思うと、突然「国際看護のイベントを大学で開催したい」と言い出し、あれよあれよと私はそれを手伝うことになった。講義やイベント以外にも「難民キャンプで病院を作ろう」という新しいグループワークの試作をするなど、湧き水のようにいろんなアイデアが湧き出てくる彼の頭の中は非常に興味深い。時々、ブレーキがついていないのではないかと思う程の彼の行動力に、私とは全く違う人間なのだと遠くに感じることがある。でも、私にはないものを持っている彼をうらやましく思いながら、彼と一緒にいる時はコピー機のような日々繰り返しの業務から抜け出し、ものすごい勢いで前進している実感が持てる、そんな時間が私は好きだった。
彼が行動を起こしたあとには何かと学内が騒がしくなる。看護師国際サミットのイベント後に学内の学生国際看護コミュニティができたり、彼の講義の後には国際NGOの人気が高まったりと、関わった人たちは次々と影響を受けるらしい。かくいう私も、その一人。
彼との出会いによって私と世界の距離は変わった。
図書館と学生時代の私
私はいま、地域保健・地域看護・国際保健を専門に大学の教員をしている。本を読むのが大好きだった私は、小中高と友達は少なかった。でも、今までの人生で不足を感じたことは一度もない。宇宙の起源、星座にある神話の世界、科学的な数字と記号の文字列、動植物の生態、お菓子の作り方に至るまで、そのどれもが図書館に行けば出会える。いつだって本は私の知らない世界を教えてくれ、私をワクワクさせてくれた。
そんな私が大人になる過程で自然と志したのは国際医療だった。
生命の不思議。人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか。幸せとは何か、それがどこかに書いてある気がして、ソクラテス・アリストテレス・カントなどそれぞれの時代のギリシャ近代哲学、三大幸福論といわれるアラン・ラッセル・ヘッセたちの幸福論、更には論語・西遊記・菜根譚など中国古典も読み込んだ。
当時、十数年の人生経験しかなかった私の一つの解が「健康」だった。
血なまぐさい人間同士の殺し合い、ペスト流行、世界で歴史的に争いや感染症が繰り返されてきた。それによって生きる希望を失う人々。
でもいつだって、そこに医療で立ち向かう人たちがいた。歴史の中のHEROたち。私も得体のしれない悪魔たちに立ち向かっていける、何者かになりたった。
高校卒業後は、国際医療者になるため基督看護大学へ進学。周りの看護学生たちは国際に全然興味がなかったようだったが、そんなことは私にはどうでもいいことだった。私がこの大学を選んだ一番の理由は、毎年大学が夏休みに行っている2週間のカンボジアのスタディツアー。もちろん1年生から申し込み参加した。私の人生で初めての海外となったカンボジア。ここから私の国際医療は始まるのだと目に映る全てを吸収したように思う。アジア社会が引き起こす医療課題、そして今まで私が生きてきた世界と違うところで人生を歩んできた人たちに触れた。私の知的好奇心が最高に刺激される2週間で、カンボジアから帰国した私は将来の国際医療者として自分を想像し、胸が高鳴って眠れなくなったほどだ。
もっといろんな場所に行きたい、もっといろんな人たちと出会いたい、もっと私の知らない世界を見たい。そんな気持ちを抑えることができず、大学時代は英語に看護にと学ぶことに想いを全力でぶつけた。学年で3本の指に入る成績を取り続け4年間走り続けた私は、当然のように毎年カンボジアツアーに参加。学生最後の年にはスタディツアーの学生リーダーも務めた。2月19日だった冬の国試も乗り越え、少し遅咲きだった桜の見ごろを終えた春の季節に、私は人生の学生生活を終え看護師人生のスタートを切ったのだった。
「熱意を形に」、長崎へ
就職は、国際医療に精通していると言われた関東にある某有名病院へ。学生時代から英語学習に人生の時間を費やしてきた私は、この病院で国際医療キャリアをスタートさせるつもりでいた。しかし、病院では上司とコミュニケーションが上手にとれる英語のしゃべれない人が次々と選出され、私に国際医療のチャンスが回ってくることはなかった。
自身の情熱を諦めることができなかった私が、ある日一枚のポスターに出会う。病院の掲示板の端っこに小さく張られたA4のポスターには、「熱意を形に。熱帯医学」と書かれていた。国際医療を目指す人たちの登竜門とも言われるそのコースは、熱帯医学研修院という国際医療人材養成コースで、私は迷わず病院を退職、長崎へ飛んだ。
第30期生として私が入学した熱帯医学研究院は、日本中から現在国際医療に関わっている将来的、またはに将来的に関わる人達が集まり、熱帯医学に必要な知見を学んだ。2年間の大学院コースもあったが3か月の短期コースに入った私は、毎日熱帯医学を24人の同志と呼べる仲間たちと学んだ。授業が19時に終わっても、私たちは駅近のスタバへ移動し教科書を開いた。そのあと、思案橋の居酒屋へ移動し、どんな社会を実現したいのかを夜遅くまで語らう、これが熱研時代の日課だった。病院勤務時代の私は院内ポータルで回ってくる出欠に渋々返信をし、年2回の病院新人歓迎会と忘年会しかお酒を飲むことはなかった。しかし長崎では、先生や同期と毎日のように居酒屋で吞みながら、どうやら私はお酒が強いということを初めて知り、かなり驚いたりもした。私から思案橋に行こうと誘うことはさすがにできなかったが、率先して店の予約行っていたため「吉井野=居酒屋予約」とポジションが仲間内で確立されていった。
長崎の熱研で自身の新しい一面を次々と見つけ私自身が一番驚いた。そして今までの人生で、誰かと一緒に学ぶことがこんなにも楽しいことなんだと感じた瞬間はなかった。この期間が私に与えた影響はとてつもなく大きなもの。かけがえのない24人の同志に出会うことができ、国際医療に関する多くを学んだ。
人生100年時代に突入したと言われている昨今。たった3か月という期間で私の人生がこんなにも変わるなんて予想もしてなかったもんだから、人間万事塞翁が馬である。良くも。悪くも。
ターニングポイント
長崎で間違いなく私の人生は変わった。
国際医療のこと、世界の理不尽さ、そこに向かっていく医療、そのどれもが私の求めていた学びたかったことだった。世界の第一線で活躍する講師陣の言葉はどれも私の心に響いたし、カッコよかった。仲間たちとのディスカッションで私はいつもワクワクし、長崎を経て世界に飛び立つ、はずだった。しかし、想いとは裏腹に私の心にできたしこり。それが少しずつ大きくなっていった。
世界をより良くするための医療。様々な国から届けられる現地への支援。しかし、みんなの想いとは逆方向に現地にもたらすネガティブなインパクト。さらには、パフォーマンスとしての横行する国際NGOビジネス。元々そこになかったもの、いなかった人が現地に入ることによって引き起こされる負の連鎖。国際医療が生み出すのはいいことばかりではないのかもしれない。特にある日メンバー全員で見た映画「ポバティー・インク」が、私の心を締め付け、そしてしこりは血管にまで浸潤した腫瘍へと成長した。
私がしたいことは、困っている人を助けること。もっと世界を知って、もっと多くの人に医療を届けることだった。それが、学べば学ぶほど、不都合な真実を知る。正直、わからなくなった。支援の前には現地に無かったなかったもの、居なかった人が負の連鎖を生み出すのなら、そもそも入らない方が良いのではないか。世界のどこかで起こっていること、見て見ぬふりではないが、あえて手を加えないことも一つの方法なのではないか、と。
思案橋駅でちんちん電車を下車し、この日は銅座町通りレトロ居酒屋の「半兵ヱ」で呑んだ。仲間に私のモヤモヤの正体、腫瘍のことをつたえると、声も体もひときわ大きい那須さんはダミ声でこう笑い飛ばした。
馬鹿言っちゃいけないよ、吉井野さん!まだ世界のこれっぽっちも俺らは知らないんだから、見てもいないことで悩んてたんじゃ始まらないよ!
そうだそうだ、と他のメンバーも那須さんに合いの手をしていたし、私自身もその通りだと分かっていた。しかし、腫瘍を抱えたまま現地で国際医療に関われる自信は、どうしても私には持てなかった。
熱帯医学研修院、最終日の修了所授与式。それぞれが感謝の意とこれからの想いを話して回る中で、私の番になった。大好きなみんなに今の私の等身大をぶつけた。
私、本当にここで学べて、みんなに出会えてよかった。
こんなにも誰かと一緒に学ぶことが楽しいなんて、今まで知らなかった。
こんなにも熱い人たちがいるなんて、今まで知らなかった。
こんなにも世界が広くて、こんなにも素晴らしいなんて知らなかった。
だから、私、みんなに私の国際医療の想いを託します。
私決めたの。私は、日本で、国際医療に貢献します。
私の心は、結局どこにも行くことが出来ずに、その場にうずくまってしまったのかもしれない。でも、このメンバーなら受け止めてくれる、彼らならならわかってくれる。たった3か月間、一緒に過ごしただけのメンバーなのだけど、私の中では初めて出会った、かけがえのない同志たちだった。
前に進むことが怖なって、更に新しいことを知って不都合がわかることが怖なって、私は止まった。
日本から同志を応援することで、未だ見ぬ大波に自分自身が飲み込まれなくていい、そんな方法でしか私自身を守れなかったのかもしれない。
たとえそれが、ずーっと前から自分の進むべき道だと信じたものであっても。
長崎から実家に戻った私は、地元の小さな病院の透析室看護師として就職。とりあえず、オンライン英会話は継続した。それが世界と繋がっていると思える、当時の私に出来る唯一のアクションだったから。
そこから1年後の夏。ステージ4の膵臓癌で闘病中だった母は天国へ旅立った。余命半年と宣告されてから実に2年の月日が流れ、最後まで弱音一つ吐かなかった母を、父と一つ違いの妹と私でひっそりと見送った。その夏の私の家族の世界は全てが灰色だった。高校野球が好だった母は、毎年甲子園を見ながら、どこが特別な高校を応援するわけでもなく、いけー!うてー!と騒ぎ、私はそうめんをすすりながらそんな母を見るのが好きだった。第96回夏の甲子園。名門大阪桐蔭が決勝で三重高校を破り、2年ぶり4回目の優勝を果たしたが、母のいない静かな私の家には、大阪桐蔭の校歌、甲子園特有のサイレンだけがテレビから流れた。熱研の仲間たちにも、誰にも母のことは言っていない。
私の国際医療へのターニングポイントは、母が理由ではなかったと誓う。
日曜の協会が当時の私の居場所だった。
世界に恋した私は、大好きだった世界を大好きのままにしておきたくて、
私の方から距離をとったのだった。
私と世界の 今の 距離
んなことあるかよ。
むすっとした顔で私に向かって齋藤くんは反応した。
いつもは私の話になんか耳も貸さない男子看護学生の齋藤くんは、今日のパーカー青年の講義には、何か感じるものがあったらしい。ちょっとだけからからかいたくなった私は、齋藤くんに「珍しわねー講義後も教室に残るなんて!驚天動地とはこのことだわね」といってみたら、案の定という反応が返ってきたのだった。
めったに会える人じゃないんだから。ほら、行った行った!
行列のできる国際看護師の切れ目を見て、もじもじする齋藤くんの背中を押し今日のパーカー青年の講義も無事終わったこと、12月最後の私の担当の授業が終わったことにほっとしていた。
私が書いたノートの内容をペラペラと見返し、齋藤くんとパーカー青年のやり取りに目をやる。
国際医療か。。私にもあんな時代があったわね。
ふと、自分を労い懐かしい気持ちになった。
地域保健を主に大学院で研究を進めた私は、学生時代のカンボジアの経験からカンボジアの国際地域保健の研究と論文も書いていて、あれから2回ほどカンボジアを訪れていた。医療者の働き方には3軸といわれ、①臨床②保健行政③教育研究とそれぞれ違った角度からアプローチがあるが、私が現在進んでいるのは教育研究というところから。かつては臨床での国際医療を志し愚直に学んでいたが、長崎のインパクト、そして母の介護がターニングポイントとなった。
母の死後、結婚した私には長女と長男が誕生し、家庭と仕事の両立、学問が好きな私の性格もあって、大学院・博士と進学しそのまま今の大学で教員として働いている。
私自身が母となった今現在、母としても大学教員としても、毎日忙しいったらありゃしない。授業をに100枚のレポートを見ては採点し、家に帰ってからも家事やら子供の相手やら、やることは山ほどある。でも。
パーカー青年の講義中に自分のノートに書き留めた国際看護の実際や現地の人たちの声。そして、彼の国際に対する想い。それらを一つひとつ聞きながら、私の中の腫瘍を再認識する。大好きのままで居たくて自ら距離を取った世界が、今また目の前に広がろうとしている。
今一度、パーカー青年の講義ノートをペラペラと見返す。
両方の口角がふわっと緩むのを感じた。
ワクワクしてるね、私。
ずっと悪性だと思っていた腫瘍は、もしかしたら良性だったのかしらねぇ。
人間万事塞翁が馬、ってわけだわね。
私と世界の距離。
時が経ちライフステージが変われば、その先々で出会う人が変われば、
私たちと世界との距離も変わるのかもしれない。
ぃゃ、距離が変わるのではなく、
変わったように感じる何かが、そこにはあるのかもしれない。
私はレポ―トとプリントが入った箱をまとめた。
さっ行きましょう、とパーカー青年に合図を送る。
彼は、私の少し後ろをついて歩きながら幕前記念講堂の緩やか階段を上り、出口へと向かった。
途中、齋藤君との会話の流れなのか、日本に帰ってきたらなーと齋藤君にグッドジョブのジェスチャーを送っている。
さぁ、次は何をやりましょうかね!
私は彼に問いかけると、彼は何か企んでいるのか私に、ニヤっと笑みを送る。そして私も彼へ、ニヤっと右の口角だけを上げ、シグナルを送る。
まるで幼き頃の我が子二人が悪だくみをする時の秘密の暗号みたいに。
私の中で、確実に何かが動き出している。
とある看護大学教員の一日 ~私と世界の距離~
ー完ー
何らかのカタチで、つづく。
次回もお楽しみに。
Best,
Tai (本文 約6780文字)
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いつも記事を読んでいただきありがとうございます!!記事にできる内容に限りはありますが、見えない世界を少しでも身近に感じてもらえるように、自分を通して見える世界をこれからも発信していきます☺これからも応援よろしくお願いします🙌