【人道支援チャド】紛争地の医療 (1/5)~僕らが国境へ向かう時~
みなさん
人道支援家のTaichiroSatoです。
あけましておめでとうございます。
久々の投稿になりましたが、今年度もよろしくお願いします。
皆さんご存じの通り、2024年1月1日 能登半島で地震が起こり、多くの方々が亡くなりました。まだまだ厳しい状況が続いています。今の僕たちに出来る被災地へのサポートは少ないかもしれませんが、想いを形にして届けていけたらと考えています。僕自身、国内外の災害に関わる医療者として、自分に出来る形で被災された方々へのサポートを中長期的に届けることができたらと思い行動にしていこうと思います。
さて、かなり時間が空きましたが、僕がチャドから帰国し早いもので2か月以上がたちました。11月や12月は全国各地で講演活動をし、僕の見た世界、そこから感じたことをお伝えし、皆さんの中で少しでも感じるものがあればと思っています。
実は、講演活動をしている間に、チャド/スーダンプロジェクトへ戻ることが決まり、1月の少しの期間になるかもしれませんが2023年のチャドの活動の振り返りや僕から見た世界を文字に残していけたらと思います。
紛争地の医療 (1/5)~僕らが国境へ向かう時~
「紛争地の医療」は全5話で投稿する予定です。
ーこの投稿は2023年4月から10月のチャドでのプロジェクトの記事ですー
(※登場する人物の名前は実際の名前から変えてあります)
2023年6月。
僕はアフリカ チャドの地平線の見えるのとあるテントの中にいる。
、、暑い。
テントの外を見渡せば、シートが張られた手作りの人工物がでこぼこと並び、見渡す限りの地平線を埋め尽くしている。
ふと息をはき、テントに戻る。
顔にも腕にも汗が吹き出し、その水分を求めて大量のハエが顔に張り付いては、僕はそれを手で払いのける、そんなことを呼吸のように繰り返していた。
ここはスーダン紛争から逃げてきた人たちで溢れ、のちに難民キャンプとなる場所。この時はまだ、たくさんの人が集まる医療テントの集落であった。
回想 ~スーダン紛争激化と僕らのはじまり~
2023年4月
僕は、チャドの首都ンジャメナの大きな部屋で荷ほどきをしている。
僕が加入したこのチームはまだ新しくできたばかりで、そのチームが大きくなる過程で新しい居住スペースを確保するため、引っ越しをしたのだった。
夕飯時。
越してきたばかりの大きなシェアハウスのリビングで、ナイジェリア人のサビヨとウガンダ人のガディがテレビを眺めながら鶏肉スープを食べている。
僕はというと、30分程の運動を終えて既にご飯も食べ終わっており、アラビア調の模様が入った深緑のふかふかのソファで横になりながら携帯のラインを開き、返信がくるはずのない深夜4時の日本へのメールをせっせと送っていた。
向かい側のソファには人一倍体格の大きいトラオレが寝そべっている。
トラオレは、サッカー中継が大好きで、週末のサッカーになると前のめりにテレビに噛り付き、あーだ、こーだ言いながら大声を出すのが毎夕のおきまりだった。
サッカー以外に関心がない彼が、つまらないニュース横目に僕に目配せをして何か言いたそうだったが、僕は気付かないふりをしてせっせとラインを送っていると、突然彼がむくっとが起き上がり食い入るようにテレビを見る。
どでかいトラオレの俊敏な動きは ガダッ! とソファを唸らせ、リビングにいる誰もが彼を注目せずにはいられないといった具合だ。
突然テレビの中のニュースキャスターの声が低くなる。
どこか怒りがにじみ出たような声色に変わる。
それから、スーダンの映像が流れはじめ、僕らは手を止め映像に釘付けになった。
スーダン、それはチャドの東側に位置する国。
隣国で大変なことが起こっていることをこの時僕らは初めて知る。
ひどい。。。チームメンバーの誰かがそんな言葉を漏らしたのを僕は聞いた。
そのころ僕たちはチャドの首都を含めた2つの場所で麻疹のプロジェクトをしていた。
歴史的に繰り返されているスーダンの紛争が再び激化したというニュースが流れ始めてからというもの、僕たちがどこに行ってもテレビやネットのニュースはスーダン紛争を取り上げ、いかに緊迫した状況であるかをキャスターが世界へ伝える。激しい口調のフランス語とアラビア語がニュースで毎日流れるようになった。
チームメンバーのほとんどがアフリカの国々から来たメンバーで構成される僕らのチーム。チームメンバーの誰しもが、日夜テレビやネットニュースに目を配らせ、「これはさらに深刻な事態になるぞ。。」と仕事以外のプライベートの時間でも、どんよりと霧がかかったような、そんな空気が僕らの家に漂うようになった。
それから2か月後の6月。
僕は、チャドの南東にある2か所目の麻疹の大きなプロジェクトを終え首都へと帰ってきた。
余談だが、僕は大きなプロジェクトを終えると比較的体調を崩す習慣がある。今回も大きな仕事をまたひとつ終えて、どっ疲れが出たのか僕は派手に体調を崩し、数日のあいだ自室のベッドに寝込んだ。
そこから3日が経過。体調は完璧とは言わないまでもある程度よくなった。
その日の23時30分。
僕らのチームリーダーであるセネガル人のアブバカが僕の部屋のドアをノックしたのだった。
いつもは週末になると、飯食いに行こうぜー、と気さくに僕の部屋のドアをノックするアブバカが、その日はとても疲れた顔をしていた。
アブバカ「タイ、話があるから俺の部屋に来れるか?」
僕がアブバカにつれられ、彼の部屋へと入る。
既にカメル―ン人のドクターヤニックがそこには座っていた。
「タイ、体調はよくなったか?」と優しく声をかけてくれる。
間髪を入れずにアブバカが本題に入る。
「今日、スーダンの国境をこえたところ(チャド側)に数百人の銃で撃たれた人たちが到着をした。明朝、誰を現地に派遣するか決めてほしい。」
僕の心臓がドクッドクッと脈打つのを感じた。
アブバカは続ける。
「タイ。体調はどうだ?タイは救急の看護師だから現地に飛んでほしい」
ヤニックが割って入る。
「タイはまだ体調が完全じゃないから、今は見送るべきだ。」
僕は、少し考える。
自分が現地にいって万全の状態じゃないことがチームにとってマイナスになる。プロとして行くべきか迷った。ただ、体調はかなり戻っていたし、前のプロジェクトが終わり休養もしっかり取れたと自分で感じていたので、今なら現地に到着してパフォーマンスが出せる。その自信が僕には、あった。
「いくよ」
と一言返答し、翌日僕は出発となった。
その後、銃で撃たれスーダンの国境を越えてチャドに入った難民の数は1日で数百人を超えたとの第二報が入り、僕はコロナアウトブレイク時のダイアモンドプリンセス号に乗る前に感じたような、未知のものに対峙するプレッシャーと責任を感じた。
現地は大変なことになっているのは間違いない。
僕たちに出来ることは一体何があるだろうか。
翌朝までに、僕を含めた派遣メンバーが確定した。
元々の麻疹のプロジェクトで一緒だった信頼できる僕のパートナーである現地看護師のマグロア。
それとヘルスプロモーションマネージャー(こういった地での活動はいかに地域の人たちにMSFの活動を知ってもらうか、必要な人が病院の存在をしりたどり着けることが以上に大事になる)のカメルーン人のクロドを連れ、翌日早朝僕らは3人で空港へむかった。
僕らは「 緊急 スーダン紛争緊急支援チーム 」と説明された紙をそれぞれ1枚も握りしめ、空港へ入る。
チェックインカウンターも飛行機も特例として対応され、全てスムーズだった。
その日の昼に入った最新の現地情報では、現実では想像もできないような数の銃で傷ついた人達の数が新たに報告され、僕らは乗り換えの空港の待合室で言葉を失った。
また僕の中でドクッドクッと脈うっているのがわかる。
首都のンジャメナから飛行機を乗り継ぐ。
更にヘリコプターに乗り込み、現地近辺の空港というよりは平らな飛行機が着陸できる場所とコンテナ(フライト手続き事務所)があるところに到着。
お決まりの世界のTOYOTAのランドクルーザーに乗り込み、車に揺られ岩だらけの道を進んで、首都から約2日間という時間を経て、僕らはスーダンの国境から1kmくらいのところにある国境なき医師団スーダン紛争難民支援対策本部に到着した。
そこで僕らが目にしたのは、地平線いっぱいに、見渡す限りの小さな手作りテントだった。
13歳くらいの子の背丈ほどの木枝を何本も並べ、どこかから持ち寄ったビニールを天井として張っている。それが、所狭しと隣り合っては並び、地平線へと続いていた。
ヒト以外にもロバやヤギも見える。そんな家畜たちを子供たちは木の枝を振り回しながら追っかけているのだった。
よく東京ドーム何個分などと広さを表現することがあるけれど、これは一体それの何十個分のになるというのだろうか。
僕らの想像をはるかに超えた数の難民がそこには既に到着している。
圧倒的な人数とその不自然さに僕らはただただ地平線を右から左へと視線を走らせるしかなかった。
ランクル(TOYOTAランドクルーザーのこと)を走らせ、不自然な人工物の向こうに沈みゆく夕日がなんともきれいだ。
その日は、既に日が暮れかけていたので、国境なき医師団の作った病院へ行くことなく本部へともどり翌日へと備えて寝ることとした。
その日の夜。
僕は初めて見たとてつもなく大きな難民キャンプの光景と美しい夕日が頭の中に鮮明に焼き付き、病院は一体どんなことになっているのかと不安になった。
当時のチャドは一番熱い時期を越えていたとはいえ夜でも35℃くらいはある。レンガを積み上げて作った部屋にはドア以外の窓がない。
僕は暑さで汗だくになりながら、蚊帳の中で一晩中モソモソと体勢を変えては汗を拭くことを繰り返し、ほとんど寝ることが出来なかった。
単に暑いだけが理由ではなかったのかもしれない。
翌朝、国境なき医師団の特設テント病院へと向かう。
テント病院は本部からランクルで約10分のところにある。
ランクルで10分といっても道なき道を走るため為、走行に時間がかかる。
距離にしたらそんなに遠くないだろう。
その先にスーダンの国境からおよそ500mちょっとくらいのところにある特設のテント病院が建てられていたのである。
そこでぼくらが目にしたのは。。
>>>次回へ続く。
※投稿内容は全て個人の見解です。
最後まで記事を読んでいただきありがとうございます!
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また次回お会いしましょう。
Best,
Tai
✎2024年より✎
2024年1月1日 能登半島地震で被災された皆様、1日も早い安心安全な日常への復旧を願うとともに災害に関わる医療者として自分に出来る形でのサポートを模索していこうと思います。
亡くなられた方々へのご冥福をお祈り申し上げます。
被災地への僕なりの形として、国内外の災害に精通する医療者として、日本の民間企業の災害支援事業をアドバイザーとしてサポートすることになりました。一般社団法人Nurse-Men のメンバーを中心といた民間の災害対策本部を設置し、中長期的な被災地支援を実施していきます。
ご支援いただけますと幸いです。
尚、ぼくの投稿は全文公開にしていますが、有料記事設定しています。
頂いた金額は2024年1年間は能登復興支援に活用させていただきます。
よろしくお願いします☺
「🏝Naluプロジェクト🏝」
みんなで応援し合える場所づくりとしてメンバーシップを立ち上げ運営しています。2024年で2年が経ちました!興味がある方は一緒にメンバーシップを盛り上げてくれると嬉しいです。
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