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6/13 「多くの人に賞賛される人生というものは、数ある人生のグラデーションのひとつに過ぎない。」

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「じぶんの価値を高めたいんです。」

多くのひとが、その明瞭さはさておき、こうした願望、それに基づく思想を抱えたまま生きている。説明不要だ。どんな価値であるか、その目的はなんなのか。それは多様であるにしても。

どうしてひとは、じぶんの価値を求めるのだろう。それは、無価値は耐え難いからだ。ひとの役に立ちたいのは、その方が居心地がよいからだ。

「なんの役にも立たないのに、ここに居てもいいのだろうか。」

そう考え続けるくらいなら、多少のコストを支払ってでも、役に立つことをした方が安上がりだ。

「グラスが空いてますね。つぎは何を呑みますか?」キャストにそう尋ねられて、「いいえ、けっこうです。」と言って居座るのは辛い。お前はけっこうでも、店はけっこうではない。

だから、多くのひとは「無価値で居続ける」よりも、「有価値になる」ようになる。そちらの方が、ずっとラクで、当たり障りないからだ。

この考え方、いや、資本主義の原則というものは、わたしたちの生活に深く根ざしている。無価値であるより、有価値であれ。

しかし、その一方で、有価値を極めたものは、むしろ積極的に「無価値になりたくなる」。いくらでもお金はあるのに、「お金ではない関係性がほしい」と言い出したり、あるいは名誉があるのに、「わたしを知らない、有名なわたしに興味のない人と一緒にいたい」と願いはじめる。

有価値とは処世術にすぎず、無価値は目的だ。ひとは何かをして褒められるだけではなく、「なにもしないで褒められること」も目的としている。母からの寵愛をうける赤ん坊のように、ただそこに居るだけで許されたい。それでしか得られない精神の栄養素というものがある。

さて、この無価値への渇望に、わたしたちはどう向き合えばいいのだろうか。価値を追いかけ、価値に逃げられる人生。価値をあきらめて、むしろ価値に追いかけられる人生。そこにある違いは、いったいなんなのだろうか?


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