冬と、温泉と、思索 #雑記


冬を好きになったのは、つい最近だ。

肌寒さというものは、ゲタを履いて生活するぼくにとってはどこか靴下を連想させられ、苦手だ。おととしまでは、この季節になると南国へ渡り生活するほどには冬を避けて生きてきた。靴下がきらいすぎて、冬まできらいだった。

なぜそんな冬を好きになったかというと、ずばり温泉だ。冬の露天風呂は、その他の時期のそれとはわけがちがう。特別に、快感なのである。温泉のために、いま冬の日本にいるといっても言い過ぎてはいないだろう。

ぼくは冬でなくても、日常的に温泉にいく。年間をとおしてみると、おそらく50回以上は通っている。サウナ施設もふくめるともっとだ。とにかく、お湯につかってボーッとしたり、サウナと水風呂を行き来してクールダウンしたりするのが日課になっている。なにもしていないのに、クールダウンはしっかりする。しかも、これがないとなにか大切なものが欠如した感覚におそわれる。1ヶ月ほどサボってしまうと精神が不調を訴えはじめる。なにもしていないのに。

そんな中でも、なぜ冬の温泉がいいのか。まずは長く楽しめること。単純に長いから満足度が高い。冬以外の温泉はすぐにのぼせる。いくら水風呂があるとはいえ、勢いよく全身を冷却する行為をなんども繰り返し行うのもまた疲れてしまう。水風呂に長いあいだ浸かるのも難しい。

冬の温泉では施設のなかでもっともお湯があつい温泉と、露天にある雑魚寝スペースを行き来するのが至高だ。サウナと水風呂が短距離走なら、これは長距離走。サウナと水風呂にはそこにしかない爽快感も存在するが、この冬の温泉ルーティンには「ランナーズハイ」のようなものが存在する。水風呂で「ととのう」状態が、じわじわと長いあいだ続くような感覚である。これがたまらない。

そもそも、なぜこんなにも温泉やサウナが好きなのかと考えていくと、単に気持ちよさがあることはもちろんだが、つまりところ「思索がはかどるから」なのだと思う。スマホも触らず、だれかに話しかけられることもなく、ただ冷たい風と水の音を、生まれたままの姿で感じる。そのなかで頭のなかに浮かんでくる事柄は、きわめて人生における重要度が高い。いまもっとも重要なことを自然と思い出すことができる。そして、それについて思索する環境がそこには十分に整っている。こんな体験が数千円で買えるのなら、買わないほうがおかしい。ぼくにとって、冬の温泉とはそういうものなのだ。

たしかに、カフェで本を読んだりするのも悪くない。面白いひとに会うのもいいだろう。実際、じぶんはいつもそれをやっている。じぶんよりもずっと優れた頭脳や、じぶんにはアクセスできない情報を持った人間たちの主張を知り、理解しようとするのも思索のうえでは大切だ。まずはそこに道具としての知識がなければ、なにも考えることはできない。

だが、忘れてはいけない。「地球の歩き方」を熱心に読むだけでは、世界を旅したことにはならないのだ。世界は読むよりも、旅するほうがはやい。そして、そうすることでしか旅することはできない。それは思索においても同じである。なにかを思い巡らすことは、本を読んで他人の知識、そこから生まれる論理を呑み込んだだけではいけない。じぶんの足で知識のうえをあるいて、同じところを何度も往復して、じぶんの足跡で論理の道をつくっていく。それこそが思索の醍醐味であり、思索そのものである。

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