人生と、焦燥感と、その先と #雑記
世の中には残酷なものはたくさんあるが、そのなかでも「気を抜いた人生の過ぎ去る早さ」は群を抜いて酷い。
残酷というのも、ある程度を超えると優しさまで感じられる。蒙古タンメン 冷やしつけ麺に甘さを感じるようなアノ感覚だ。
「気を抜いた人生の過ぎ去る早さ」には、時間というのは絶対的なものではなく、主観的なものなのだ、そんなことを教えてくれる優しさが、ある。
22時に尿意と共に昼寝から目を覚ます。ネコを撫でて、トイレにかけこむ。「今日はなにをしたんだっけ」そんなことを思いながら、頭を掻く。歯を磨く。
不思議とこういう瞬間には一瞬だけ「焦燥感」みたいなものが訪れる。なにもせずにただ終わりに近づいていくという行為は、おそらく動物の本能的にはマズいことなんだろう。...明日のエサとか獲ったほうがいいしね。
ただ、そんな感覚もすぐにおさまる。それはぼくがそんな人生を諦めていて、それを許しているからだ。なんとなく理由もなく焦るのが人生だし、しょうがない。ただ、焦ってもしょうがない。人生はどちらにせよ、しょうがないものだ。ネコを撫でて、エサを与える。ニヤニヤする。これでいい。
人生と焦燥感。これは切っても離せない。コインの表と裏。焦燥感を完全になくすということは、人生を完全になくすことに近い。実際、焦りのない人生は気がついたら終わっている。体感的には、ないものと同じになる。
人生においてあきらめることは重要だ。ただ、それは「なにごとにも焦ってはいけない」などという安易な話ではない。むしろ、焦っていい。あきらめるとは、「焦ってもいいし、無理に焦ろうとしなくてもいい」「だって、どっちでも人生はたいして変わらないもんね」というロジックと、それを人生におけるスタンスに組み込むということだ。
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