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第10話 ショートストーリー「1通のはがき」
昨年の11月のあの日のことは今でも鮮明に覚えている。会社から帰った私はいつものようにマンションのロビーにあるポストを確認した。不動産仲介のパンフレットや宅配のピザのチラシに紛れて1通のハガキがあった。そのハガキの裏面は黒い線で縁取られ、園田有希子からの挨拶文が書かれていた。
「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます
園田慎一郎が本年9月 63歳にて他界いたしました
長年にわたり賜りましたご厚情に心より感謝いたしますとともに
皆様にはよき新年を迎えられますようお祈り申し上げます」
私はロビーから5階の部屋へ向かうエレベーターの前で動きを止め、もう一度ハガキを見返した。「園田君が、、、」突然の知らせに息を呑んだ。しばらく動くことができず、ハガキの文面を何度も読み返した。ふと我に返りエレベーターの前で立ち尽くしていた自分に気づき、部屋へと向かった。部屋についてダイニングの椅子に腰かけ、背広のまま突然の訃報を何度も読み返した。
私と園田慎一郎の付き合いは長い。慎一郎は15年前に私が長く勤めた日系の電気機器メーカーA社からアメリカの医療機器メーカーS社へ転職した時にS社を紹介してくれたエグゼクティブサーチのコンサルタントであった。
当時、日本企業と外資企業の間では仕事に対する意識や常識が大きく異なっていた。だから外資企業のインタビューを受けるにしてもどうやって受け答えすべきか、自分をどう売り込むかなどには抑えるべきツボがある。それは組織として内向きな日系企業の発想とは異なるもので自分の考え方を理論的にクリアーに主張しなければいけない。今まで自分が何をしてきて、どういうことに向いているのかということを転職活動の中で整理し、改めて理解できた転換点であった。
私は20代後半から3年間アメリカのニューヨークに海外赴任をしたことがあった。そのことが転職への潜在的なきっかけにはなっていたとは思うが、そうはいってもそこは日系企業という守られた社会の中の話でほんとうの意味でグローバルなビジネスや社会を知らなかった。だから外資企業で様々な国の人間と働くことなどは想像もしていなかった。そんな私にグローバルビジネス社会の窓を開いてくれたのが慎一郎だった。
当時私はA社の人事部門の管理職をしていた。その関係で人事業界の集まりに参加することがあり、そこで慎一郎と知り合った。日系企業の人事戦略をテーマとした勉強会だったと思う。慎一郎は著名な経営戦略とエグゼクティブサーチ会社のコンサルタントとしてその勉強会に参加していた。
当時A社は過去からの事業戦略がうまく行かず不振に陥っていた。その結果、大規模なリストラクチャリングを行っており社内は殺伐としていた。従来からの会社の経営方針は変わり、先端技術を用いて新しい商品を生み出す会社からエンターテインメント事業をメインにする会社へと大きく舵を切っていた。私はそんな会社の変貌に少し違和感を持っていて、「自分はこれからもこの会社に勤めていくべきなのか」という疑問を持ち始めていた。慎一郎はそんな時に出会った人物だった。
慎一郎は身長が高いわけではないがガッチリとした体格でグリっとした眼光のするどい人だった。分科会のセッションで同じチームに入った彼は活発にディスカッションにも参加してひときわ目を引く存在だった。その後の懇親会の席で再び一緒になった時に話をして親しくなった。
色々と話をしているうちに慎一郎とはたくさんの共通点があることに気づいた。慎一郎は日系の証券会社で長く広報の仕事をしていて、そこから外資企業へと転職した人間だった。イギリスに海外赴任もしており、英語も堪能だった。何よりも仕事仕事というタイプではなく、食やお酒にも詳しく、歴史や政治にも広く興味を持つ人間だった。2人が親しくなっていったのは自然の流れだった。ワインがお互いの好物であることで盛り上がり、今度飲みに行きましょうということになった。
外資のエグゼクティブサーチ会社のコンサルタントの中にはプライドが高く上から人を見下すような人間も少なくないが慎一郎はまったくそんな気配がなかった。慎一郎はどちらかというと饒舌で話し出すと止まらない方ではあったが、全く気取らないタイプだった。証券会社にいた時期はVIPの対応などもしていたので有名な政治家や皇族なども知っており「実はあの人はこんな事件もあった。」とか「TVで見るのとは違ってこんな性格だった。」などということも面白おかしく話してくれた。
慎一郎はいわゆる話が上手でおもしろい人間であったが、それと同時に物事の本質をズバリと指摘できる人間だった。後に転職を真剣に考えるようになった時、慎一郎は私が作った職務経歴書をみてこういった。「中山さん、職務経歴書は就いたポジションを説明するのではなくて、そこで何をやったかが大切なんですよ。」
慎一郎はまたこんなことを言った。「面接の時は、何を成し遂げたかだけでなくて、なぜそれができたか、成果のエビデンスが何なのかということまで話す必要があります。成果に対して常に客観的な証明ができるように準備をしておいてください。」「外人と話す時はできるだけ曖昧な言い方は避けてはっきりと言い切った方が伝わると思いますよ。」慎一郎は面接の前の打ち合わせではいつも適切なアドバイスをくれた。
結局私は慎一郎の紹介でS社へ転職したが、転職してからも慎一郎はよく声をかけてきた。もちろん、フォローアップという意味合いもあったと思うが、その度に2人の共通の趣味である美味しい物を食べに出かけ、様々なことを話題にするようになった。また、私が会社で色々な問題に直面するとその相談相手にもなってくれた。
例えば他社を買収することになり、相手の会社に当事者として説明に行くことになったことがあった。人事として会社買収によって起きる様々な変更を先方の社員に説明する必要があったからだ。
「大事なのはまず笑顔で挨拶することじゃないですかね。相手を同僚として扱うことです。」「会社が買収されたら今まで通りにはいかないと思いますよね。でも、その会社にとって重要なことは大きくが変わることはないということをはっきり言ってあげるのがいいと思いますよ。だってその会社は価値があるから買われたわけですから。」慎一郎はそういった。
「買収は社員個人でいえば買収側が上ということはないんですよ。どちら側でも優秀な人が上に行くというのが原則です。外資企業はその点は合理的に判断するものですよ。」慎一郎はいつものように淡々と話をした。
私は卒業後20数年勤めた日系企業を早期退職制度に乗って45歳の時に辞めた。そうして初めての転職先は外資企業だった。会社を辞める時は多くの同僚が反対した。中には「中山、血迷うな。」といって引き止めてくれた者もいた。しかし元々何事にも型にはまらず、自由で個人主義な雰囲気を好む私には外資企業の方が向いていると思っていた。しかし実際に転職してみるとその違いは思ったよりも大きく、自分の働き方や考え方の再構築が必要だった。
長く日系企業で働いてきて身についた考え方は外資企業のそれとは異なる。個人よりも組織を大事にすることや結果よりもプロセスを大切にすること、物事の良し悪しを明確にするよりもあうんの雰囲気を大事にすることなどは外資企業では馴染まない考え方だ。私はそういった違いへの対処を実際の出来事の中から学んでいった。同時に外資の考え方に戸惑う時には慎一郎から多くのアドバイスをもらった。
私はS社に人事の責任者として入社した。入社当時S社は300人程度の小さな会社で私を含め3人の人事担当がいた。その後私は15年間もS社に在籍することになったが、その間S社は日系大手企業のC社の買収を初め、いくつかの買収をしながら大きくなっていった。その過程において私は様々なドラマチックな変化を経験しながら外資企業の人事専門家として成長した。慎一郎には色々な相談もしたし、たくさんのアドバイスを受けた。気がついてみれば私の立場も大きく変化していって最後には1000人規模の会社の人事担当役員になっていた。
園田慎一郎は親の代からの生粋の東京人であった。有名私大を卒業後、日本トップの証券会社B社に就職し、広報マンとなった。持ち前の語学力もあってか30代で5年のイギリス勤務を経験し将来を嘱望されていた。彼が何故B社を辞めたのかは不明だがその後スイスに本社を持つ世界的な経営コンサルティングとエグゼクティブサーチのD社に入った。
私と出会った時、慎一郎はD社のコンサルタントをしていた。D社は丸の内の高層ビルに豪華なオフィスを構え、少数精鋭のコンサルタントを擁する特別な会社だ。傍から見ると慎一郎はとても恵まれたポジションにいたと思うが、出会ってから10年後、今から5年前のことだがC社を辞めてヘッドハンターとして独立した。慎一郎はそのことを多くは語らなかったが内部での際限ない競争とスノッブで上昇志向の高い職場の雰囲気は慎一郎の性には合わなかったのだろう。
慎一郎がヘッドハンターとして独立後、いつもの食事会をすることになった時、会社をやめたこと以上に弘樹はびっくりさせられることがあった。慎一郎はこう切り出した。「実はしばらく前から推理小説を書いていたんですが、この度A社の新人賞を受賞することができました。」
「えっ、そうなんですか。」「推理小説?」弘樹が聞いた。
「知っての通り私はヨーロッパの歴史が大好きなんです。ですからヨーロッパの歴史を舞台に小説を前々から書きたいと思っていたんですよ。書くなら好きな推理小説をと思っていました。」
「A社の新人賞は有名ですよね。それはすごいじゃないですか。おめでとうございます。」そういうと慎一郎は少し誇らしくまた照れたような顔になった。「ということで本も近々出ることになりましたのでその節はよろしくお願いします。」彼が独立した背景には小説を書いていこうという意思があったことを知った。慎一郎の転身は何か眩しくうらやましいと思った。
私と慎一郎は頻繁に会うということでもなく、かと言ってずっと会わないということでもなかった。私は相談したいことがあればすぐに慎一郎にメールしたし、彼はすぐに返事をくれた。また彼はヘッドハンター業をしていたので探している人材のことや逆に紹介したい人のことで私にも声をかけてきた。そうして年に3〜4回は食事にいってお互いの近況報告をするという関係を続けた。
慎一郎は前向きでポジティブな人間だったが、一方で長く付き合っていると大変な経験もしている人間だということがわかってきた。園田慎一郎とその妻有希子には子供がいない。しかし、彼らには長い間面倒を見ている甥っこがいた。それは妻有希子の実弟の子供だ。有希子の弟は商社に勤めていたが慎一郎と同様イギリスに赴任していたらしい。そして赴任中に夫婦は交通事故のため亡くなり、残った子供を彼らがずっと援助してきたそうだ。その子は既に大学生になっており自立しているが今でもその関係は続いている。
また、慎一郎は先天的に心臓の機能に問題があったそうで、私と知り合う前に大規模な心臓施術をしていたことを後に聞いた。彼の周りには常に死にまつわるものがあったようだ。しかし普段の彼はそんな暗い影は少しも感じさせない人間だった。私は彼からぐちのようなことは一度も聞いたことはなかった。むしろ彼の人生経験がそうさせているかもしれないが、何か判断する時、いつも素早く潔い意思決定をしてきたように思える。それは傍から見ても清々しい気持ちにさせるものだった。
慎一郎と知り合いになってしばらくして私が所有していた那須の別荘にご夫婦を招待したことがある。その時のことは今でも楽しい思い出になっている。それは小さな山の中のワイルドな一軒であったが園田有希子は都会育ちのお嬢様で虫が苦手なのに、その時はぜひ行きたいといって来てくれた。私の妻が作った丸鶏のオーブン焼きを皆でワイワイと食べたことを覚えている。
彼女は長くアメリカの大手コンピューターメーカーに勤めていたがその頃リストラがあって年長者の彼女は退職することになった。特別退職金ももらい、またそもそも資産家の娘であったのでお金にも困らないはずなのに、今度は人材派遣でパートで働くという。輝かしいキャリアがあった人でもう働く必要もないはずだが彼女はどんな条件でも働き続ける選択をしたのだ。彼女を取り巻く環境は激変すると思うが働くことが好きでまた、マイペースな人なのだ。
慎一郎と私はその夜、那須高原の星空の下でお酒を飲みながら話したことを覚えている。彼はこういった。「今考えているのは自分の遺伝子を残せないかなということなんですよ。僕には子供がいない。僕が死んでしまえば何も残らない。それが何か寂しいですよ。」「なんとか自分の分身を残したいと最近はそんなことも考えるんですよ。」彼はびっくりするようなことを空を仰ぎながらいった。子供がいないという点では私も一緒だった。私には自分の遺伝子を残したいと思ったことはなかった。
慎一郎が会社を辞めて3年目になった頃、通訳試験を受けているという話を切り出した。正式には全国通訳案内士という国家試験だ。合格率は10%程度の狭き門といわれ、一次試験と二次試験を突破しなければいけない。二次試験の口述試験は問題ないだろうが一次試験は外国語の他、日本地理や歴史、一般常識も出題される。そのための勉強はかなり大変だ。そもそも60歳近い人が国家試験に挑戦するのは大変なことだと思うが、彼は頑張って勉強しているようだ。
元々彼は歴史が好きで特に海外、特にヨーロッパの歴史には造詣が深い。彼のヨーロッパの知り合いのネットワークを使ってヨーロッパ人向けにツーリズムの会社を起こして日本ツアーをビジネスにするのが目標だと言っていた。彼はそのプランを打ち明けて2年目に見事合格を果たした。
合格を果たした後にしばらくして食事をした時には彼はこんなことをいっていた。
「やっとなんとか合格はしましたが通訳案内士の世界には色々と組織やネットワークのしがらみがあるようです。目標を実現するのはまだ時間が必要そうです。今は色々と勉強やネットワーク作りをしています。」「出版した受賞作の英語版がやっと片付いたのですが、2作めの推理小説を書いているところでこちらも今年中には上訂したいと思っています。」
「それではヘッドハンターはもう卒業ですか?」「そうですね。会社社長は今知り合いの方に引き継いでいるところです。」
慎一郎は着々と通訳案内士と推理作家の二足のわらじの世界を築いていこうとしていた。
私は長い間ダイニングの椅子に座って慎一郎との今までの色々なやり取りを振り返っていた。そしてやっと現実の世界にかえって、まずは園田有希子と連絡を取らなくてはいけないと思い立った。そしてパソコンを開いてメールを書き始めた。
園田亜希子様
大変ご無沙汰しています。本日、訃報のハガキをいただきました。突然の知らせに動揺しています。6月に慎一郎さんとメールのやり取りをしていました。コロナ禍の時期でもあり、もう少し落ち着いたら食事に行きましょうという話になっていました。なんでもっと早く連絡しなかったのだろうと悔いています。連絡もせず状況を知らないまま今日まで過ぎてしまったことを心からお詫びします。
私は会わなくてもいつも慎一郎さんのことを考えていました。何か困難があった時には「こんな時彼ならどうするのだろう。」ということを考え行動していました。頻繁にお会いすることはありませんでしたが同じ年の仲間として常に意識する存在でした。そんな彼が今いないということがうまく理解できません。
自分のことばかりですみません。有希子さんの方がショックは大きいですよね。時間しか彼の喪失を受け入れられる方法はないかと思います。私も今できることはただただ、悲しむことです。どうぞ体には注意してお過ごしください。
中山弘樹
メールを送ると私は着替えをして外に出た。もう夕飯の時間だったが食事をする気持ちにも慣れなかった。四谷の家から神宮外苑まで散歩をしようと思った。園田の家は六本木にあったがそこに今から出向いても面と向かって有希子とうまく話す自信がなかった。また、有希子も今はそっとしてあげておいたほうがいいように思った。まずは自分の気持ちの整理ができるまで歩こうと思った。信濃町の駅を超えて神宮外苑の絵画館の脇を通り抜け、イチョウ並木へと暗い夜道をさまよいながら自分の気持ちが少しずつ鎮まるのを待った。
それから2日ほどして有希子から返信のメールが戻ってきた。
中山弘樹様
ご丁寧なメールありがとうございました。また、美しい青のフラワーアレンジメントをいただきありがとうございました。中山さんの思いが伝わるお花でした。
慎一郎は本年9月14日に心不全のため急逝しました。通訳案内士のお仲間との会合があり、朝は元気に出ていったのですが帰宅途中、駅構内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。急な出来事に私も最後を見届ける事はできませんでした。
慎一郎は常々中山さんとのやり取りを私にも語ってくれていました。その話しぶりから慎一郎にとって中山さんは特別な存在であろうと推察していました。慎一郎がなくなってから眼の前のことに対応することに忙殺されご連絡できなかったことを深くお詫びします。
私は、まだ亡くなるには早いという思いが強く死を受け入れることができないのが率直な思いです。人の命は儚いですね。
中山さんはどうぞ慎一郎の分まで生きていただけたらと願う次第です。
色々とお世話になりありがとうございました。
園田有希子
時間はあっという間に過ぎていく。慎一郎の死を知ってからも日々の暮らしは続いている。朝起きた時、会社で働く時、家に帰った時、色々な場面で慎一郎がいなくなってしまったことを思い出す。そんなに頻繁にあっていた訳では無いし、人生の後半に巡り合った人なのにいかに自分の心の中に深く入り込んでいたのかを今になって改めて感じずにはいられない。
彼と私とはタイプの違う人間だったと思うが彼の生き方は自分にとって大きな刺激になっていたと改めて感じる。
また、彼は人はいつ死ぬかわからないということを身をもって教えてくれた。「将来のことを考えてもそれはどうなるかわからない。だからやりたいことは今やるんだ。」そう彼は伝えてくれたように思う。
園田有希子は私への返信で「慎一郎の分まで生きてください。」と言っていた。しかし残念ながら私は彼の分まで生きられるか分からない。私にできることは今を真剣に生きることだけだ。今自分が本当に悔いのないように生きているかということを問いながら生きていくつもりだ。
慎一郎の忌引ハガキを受け取って6ヶ月が過ぎようとしている。私は長く勤めていた会社を辞めた。大きくなった会社はまだ継続して働くポジションが残っていた。しかしながらこれ以上続けようという気持ちになれなかった。ここでは十分な時間を過ごしたと思っている。この決断に慎一郎の死が影響しなかったといえば嘘になる。悔いがないように今を大切に生きたいと思った時、今の会社はそろそろ潮時だと感じた。これからは、個人で人事コンサルタントの仕事をしようと思っている。また、今までビジネスで経験してきた様々な出来事を活かして文章を書いている。
慎一郎と同じように文章を書くという目標を持つのは不思議なことだ。ただ私達二人には、色々と共通点があったのも事実だ。彼は地理や歴史の知識を活かして推理小説を書いたが私には推理小説を書くセンスも想像力もない。だから私は自分が経験したビジネスのことを物語にできたらと思っている。慎一郎は自分の気持に正直に働く場所を変えていったが私も私のやり方でやりたいことを追い求めたいと思っている。人生は儚く、今を好きなように生きるのが私と慎一郎の流儀だからだ。 了