「泥々」のこと(3)技術のこと
「技術も身体知もいつか消える」と思った。
別に泥々もろとも消えてもよいのだけど、少なくとも100年は残したい。
それはさておき、重要無形文化財の故・加藤孝造先生は「このままだとロクロの技術が消えてしまう」と言っていた。
僕はロクロ技術だけでなく、志野という技術のノウハウ、焼成の技術、ありとあらゆる技術が消えていくと思った。もったいないという気持ちしかなかった。こんなにも良いものがいつか作れなくなるのは嫌だな、と。
ロストテクノロジーとなってしまっては元も子もない。
3Dプリンターだ、AIだ、なんだかんだというけれど、すべては先人の知恵と技術があって、その流れの先に現代の先端技術がある。その先端技術の開発には連綿と続く研究の歴史がある。
泥々では最先端の技術などなんら持ち合わせていない。だけれども、泥臭い昔の方法で作っている会社があっても良いんじゃないかと思っている。
目新しいこともしない。最先端の技術もない。開発もしない。
伝え続けられてきた技術や知恵を、その流れのとどめることなく次に継いでいくだけ。
ひとつ思っていることはある。知識だけでもオープンソース化しても良いんじゃないかと。今はとてもやってる場合ではないけれど、オープンソース化することで、がけっぷちに立たされた技術のあれこれをほんの少しでも残すことができるのではないかとも思っている。
もちろん工芸の世界は知識だけではない、身体知とも呼ばれるものも含まれる。でも、これこそ最先端の技術にお手伝いいただき、体の動きや手の感覚を記録することで、後世の人がロクロ技術などを追体験できるのではないかとも思っている。もちろん追体験なので、その人の身体に宿したものではない。だから2番煎じになってしまうけど、ないよりマシと思うほかない。
それくらい技術継承は切迫したものになっていると感じている。