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『いないかもしれない』—ノリを凌駕する爽やかな「キモさ」

5月30日 観劇三昧
うさぎストライプ
『いないかもしれない』
作・演出:大池容子

見終わった後、とても興奮している。いろいろ語りたいことはあるが、細かいことは説明が長くなるのであまりしない。

最近、千葉雅也の『勉強の哲学』を読んだこともあって、『いないかもしれない』は、登場人物たちが何とかノリをつくろうとするが、そのノリを破壊されてしまうというドラマとして見えた。千葉雅也の言葉でいえば、ひたすら「キモい」ドラマだった。「キモい」とは、ノリが悪く、環境から浮いてしまう語りのことである。

同窓会の二次会。旧友とかつてのノリを楽しむはずが、そうならない。なぜなら、その場には、当時あまり仲良くなかった人がいたり、知らない人がいたりするからだ。登場人物は、ノリをつくって遂行しようとする人と、そこから浮いてしまい、結果としてノリを破壊し、その場の空気を「キモく」してしまう人に分かれている。

前半は、ノリをつくろうとする人が何とか旧友たちの砕けたやり取りをしようとするが、そこに部外者が乱入したり、誰かの空気の読めない発言によって、その場がなんとも居心地の悪い感じになったりする。この感覚は、多かれ少なかれ、集団で過ごしているときに経験したことがある。『いないかもしれない』はそうした居心地の悪い感覚を再現するのに非常に優れている。象徴的なのがカラオケで、同級生のノリからズレたBGMがかかることによって、場の「キモさ」が際立つ。

基本的には、ノリとキモさのせめぎ合いのドラマとして続くが、中盤でドラマが大きく動く。当時あまり仲良くなかった女の子は、大人しそうなふるまいゆえにノリを壊し、「キモく」なっているが、その子が実は元いじめられっ子であり、ほかの登場人物が元いじめっ子であったことが、断片的に明らかになってくる。ここでドラマは、ノリとキモさがせめぎ合うドタバタコメディではなく、ノリを作り出すことで、そのノリのなかで優位にふるまうことができる人と、そのノリから浮いてしまうがゆえに、不利になってしまう人のドラマに変化する。

ここでも象徴的なのがカラオケで、それまでカラオケは部外者的なポジションの人が行う「キモい」行為だった。しかし、ドラマが転換すると、カラオケの音楽はノリをつくるものとなり、元いじめられっ子だけが、そのノリから浮いてしまうという演出になる。さらにこのとき、過去のいじめの時空が、現在の二次会の場面に入り込んでくる。注文したドリンクとおつまみとして、牛乳と鉛筆の刺さったパンが差し出される。さもそれが当然だというように。この現在と過去が入り混じる演出によって、ノリから浮いて「キモく」なってしまうことのトラウマが痛々しいほど感じられるシーンとなったた。

しかし、このシーンは中盤であった。この象徴的で痛々しいシーンで幕を閉じてもいいのにと不思議に思った。ドラマがひっくり返るほどの大きな転換があったのだから、ここで幕を閉じれば、心にモヤモヤが残って現代的な演出となるのではないかと考えた。よくある観劇経験だ。

けれども、『いないかもしれない』はまだ続いた。後半はあまりドラマ的な展開はないように思える。しかし、何かがゆっくりと変わっていることをうっすらと感じた。「キモさ」がノリを凌駕しはじめたのだった。

元いじめられっ子は相変わらず大人しくておどおどしていた。けれども、それは生来の優しい気質からくるもので、それはずっと一貫していた。この優しい気質が、クラスの雰囲気から浮いてしまい、「キモく」なってしまっていた。彼女はそこから変わろうとしていたが、そこは変わっていない。そのことが彼女を苦しめていたが、後半から徐々に、彼女のそうした一貫した気質が、場のノリを凌駕していくのだ。

最後のシーンはとりわけ興奮しながら見ていた。ここで、表面上は静かなシーンでも、登場人物の関係性の大きな変化を感じさせるセリフがあった。まずは、元いじめっ子が元いじめられっ子と二人きりになったとき、「何しゃべっていいかわからないね」と言ったときだった。彼女はこれまで、自分たちの楽しいノリでしかしゃべっていなかった。「何しゃべっていいかわからないね」は、自分たちの状況を言い当てる正直な吐露である。ノリとは、そのノリのなかに入って流れにのることであり、自分たちが今どんなノリのなかにいるのかとメタ的な視点からものを言うのは、ノリを逸脱することなので、「キモい」ことである。それを元いじめっ子が言うということは、彼女がノリから逸脱することを受け入れたということである。

そして、何より感動的なのは、最後のセリフである。元いじめっ子は、バツの悪さからか、一緒にカラオケを歌わないかと提案する。それに対して元いじめられっ子がした返事は「やめとく」である。このセリフが感動的なのはもちろん、これまで人の顔を見ておどおど発言していた彼女が、自分の意思をはっきり伝えたシーンだからということもある。しかし、それだけではない。元いじめっ子が元いじめられっ子にカラオケを提案するということは、二人の関係性が変化し、新たにノリをつくろうという動きである。これに対して、そのノリにのっかってノリを共有するのではなく、ノリを拒絶することで「キモく」あり続ける。その「キモさ」は、ノリにのっかれる優位な人とのっかれない不利な人という関係を生み出すものではなく、彼女たちの自律した関係を予感させる、爽やかな「キモさ」だった。

千葉雅也は、ノリから浮き、「キモく」なることを評価している。「キモく」なることで、ノリから離れ、自由になるからだ。誰も「キモく」ならなければ、そのノリは継続され、やがて暴走する。最後のシーンにおいて、爽やかな「キモさ」という一見矛盾するような感覚があったのは、それゆえだろう。


※写真はステージナタリーの記事より引用

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