見出し画像

エアランゲンの「学問の夜長」&7月に見た演劇プロジェクト

2019年10月19日
Die lange Nacht der Wissenschaften

1カ月くらい前から、「Die lange Nacht der Wissenschaften学問の夜長」のポスターを町のあちこちで見かけた。大学で外部に開かれた催しが開かれるのだろうとしか思っていなかったが、それにしては広報に力が入っているなとも思った。大学が一般公開されるという点は間違っていないが、一般に開放されるのは大学だけではなく、専門学校や博物館、ギムナジウムに至るあらゆる教育施設がこの企画に参加していた。

行くつもりはなかったが、出先でたまたまブースが開かれていて、そこで全催しが掲載された冊子を手渡された。コンパクトだが、200ページ以上ある。パラパラめくると最新の技術を体験できるような企画がずらりと並んでいる。3Dやらロボットやらの写真が載っていてわくわくする。参加しているのは工学系だけでなく、芸術系や社会学系、医学系もある。ギムナジウムは親子で楽しめるワークショップ的なものが多い印象だ。人文系の催しは教授による講演が多い。

どれを見に行こうか考えて、結局、演劇メディア学の催しを見に行った。参加者は親子連れから学生、あるいはシニアの友人同士で来ている人もいる。子どもや若者からすれば、どんな学問があって、それぞれどんなことをするのか体験できるまたとない機会だろう。大学に通っているとしても、自分が学んでいる以外の学問がどんな場所でどんなことをやっているのか知るいい機会だった。普段、用事がなければ、自分とは関係ない建物や教室まで足を運ぶことはないし、どんな先生がいるかなんて知りようがない。大学構内を歩き回りながら、各ブースを横目で眺めるだけでもかなり楽しめた。

さて、演劇メディア学で行われた講演の内容は、先学期に上演された一つの公演についてだった。今年はエアランゲンにある劇場が設立からちょうど300年の記念すべき年で、演劇メディア学と劇場は提携して連続講演会を開いたり、史料をもとにした上演作品を創作して、5月末に国際人形劇フェスティバルの枠のなかで上演された。

上演を見たときは正直あんまりおもしろくないと思ったが、それも無理はないのかもしれない。そのときはアーティストと学者ではやはり違うのだなとか生意気にも思ったが、それは当然で、エンターテイメントとしては大しておもしろくないだろう。しかし、演劇メディア学的な視点としてはかなり実験的なことを挑戦していたのであって、そういう点ではそこそこおもしろかった(interesting)のだなと、この日の講演を聞いて思った。

300年前、1719年にこけら落としの公演が行われた。現在残っている史料は主に公演を描いた絵やパンフレット、楽譜で、それ以外のことは当時の社会的状況を、別の史料や研究から推し量ることしかできない。そもそも演劇研究というものは、上演という再生不可能なものを対象としているのであって、史料があるといっても、史料からは当時の上演を想像することしかできない。5月末の公演は、この演劇学の基本原則を上演というやり方で示そうとしたもので、そういう意味では、アートベースドリサーチ的でもある。公演は5つの演出で構成されていて、それぞれ異なるアプローチから、1719年の上演がいかなるものであったかに迫ろうとし、同時にその不可能性を示すような上演になっている。

一つ目が、物理学の講演である。どうして演劇の公演でいきなり物理学の講演がはじまるのか。講演するのは物理学を専攻している学生で、友人に演劇学を専攻しているやつがいて、物理学の技術を用いて演劇学に貢献する一例を紹介するというものである。音は振動からできていて、物体はこれを吸収する。吸収された音は加速度的に小さくなるが、物体の最奥層にいけばいくほど、昔の音の振動が残っていて、それを取り出すことによって、昔の音を再生することができるという内容である。これはもちろんパフォーマンスなのだが、はじめは物理学生の発表の身振りのそれっぽさに騙されてしまった記憶がある。講演は理論部と実践部から構成されている。理論部では図やメタファー、グラフをふんだんに用いて、それっぽさを演出している。実践部では、どういう機械を用い、どういうやり方で音を抽出したかというやり方が詳細に説明され、実際に抽出した音が披露される。詳しく知りたい人はロビーにあるパネルを参照することができるという配慮まである。これが導入であるのは、今思うとうまく計算されていて、この公演が単純に1719年を再現するのではなく、あらゆる手段を用いて1719年に迫るものであることを示していたのだった。

2つ目が当時のオペラ歌手と現代の観客との会合を表現したものである。舞台上にスクリーンがあり、その後ろからうっすらとチェンバロの演奏と歌声が聴こえてくる。しばらくすると観客の一人が好奇心から舞台上に上がってスクリーンの裏側を見ようとする(観客はもちろん俳優が扮している)。スクリーンが落ちると、そこには当時の衣装に扮した楽団と歌手がいる。彼女らは観客を見てびっくりしたような表情を見せるが、そのまま歌い続ける。興奮した観客は照明機材を運んできて、歌手をライトアップし、それからスマフォで歌っている姿を取り始める。1719年の歌手は見慣れない機械を見て困惑している。一番困惑した表情を見せるのは、スクリーンに自分の歌っている姿が映ったときで、驚いた彼女はスクリーンの裏側に逃げてしまう。観客がスクリーンを引き落とすと、そこには歌手はおろか楽団の姿もなくなっている。

3つ目が影絵を用いたもので、上演を見たときは何を狙っているのかさっぱり分からなかった。スクリーンには台車や消火器など、現代の劇場にある道具類のシルエットが映し出される。おそらくそのシルエットで1719年の公演をシンボル的に表現しようとしたのだろうと思う。現代と過去の融合させるような試みとでも評せるのかもしれない。1719年の公演の絵には舞台上に2頭の象が描かれている。台車の持ち手の部分は象の目のようになり、消火器は鼻のように見える。影絵はいろいろと移りゆくので、その度に1719年を象徴するようなイメージが立ち現れては消えていたのかもしれない。

4つ目は、観客の様子を再現する試みである。公演の絵には、舞台上の様子だけでなく、観客席の様子も描かれている。演劇学はこうした史料から当時の観客の様子、そしてそこから観客席の社会的な身ぶりについて考察することができる。絵で見るだけでなく、実際に絵の通りに人間を配置し、その通りのポーズをさせると、絵とはまた違った印象を受けるかもしれない。ポーズをとるのは演劇学の有志の学生で、アナウンスの指示に従って、絵の観客の配置を再現する。人数が足りないので、絵の通り全員が揃うことはないが、そのおかげが、さまざまな組み合わせを取り出してみることができる。絵の真ん中には子どもがいて、親にしがみついて舞台上を指さしている。その子どもを演じる学生は、特定のタイミングで「ねえ、見て!」と叫ぶことを繰り返す。その再現のぎこちなさがおかしくて客席からは笑い声が上がる。

5つ目は、絵の象の再現で、これには造形作家による作品が使われている。舞台上に巨大な像のイメージが置かれることは、それだけで強烈である。1719年の当時、象は新種の動物であり、その衝撃は現代の比ではなかったと推測されている。象の周りには、当時の俳優が舞台上でしていたと推測される身ぶりで動きまわる。舞台上全体には、当の絵が映写され、舞台上は二次元的な絵と三次元的なパフォーマンスとの二重写しとなる。

あと、劇場のロビーはパイナップルで飾られており、観客にはパイナップルのドライフルーツが渡された。パイナップルの環にリボンが付けられ、メダルのように首にかけることができる。このパイナップルも、1719年はたいへんめずらしい果物で、当時は食べるというより飾られることがあったという。パイナップルはロビーの祝祭的なムードを演出するものでもあり、これまた当時の劇場の社会的役割を再現しようとする試みである。

これらのことは、創作の意図をふまえた上で体験すればかなりおもしろい体験となっただろうが、普通に物語を見に行くつもりで観劇してしまったため、楽しむというより混乱と退屈の方が大きかったのだと思う。だからダメだとは全く思わない。上演そのものは楽しめなかったが、こうして数か月経た後で解説として追体験すると、とてもおもしろかった。

演劇メディア学のあと、言語学でギリシアの喜劇を読む講演があったので、聴きに行ったが、パピルス史料からギリシア語を解読するというかなり本格的な内容だった。ギリシア語はさっぱりなので、扱っているのがどんな話で、史料からどんな解釈が可能なのかという学問としておもしろい部分がさっぱり分からなかった。ただ、史料から解読する手続きや、解釈の揺れがあるみたいな雰囲気だけはなんとなく感じることができた。それで力尽きたので帰って寝た。

いただいたお金は勉強に使わせていただきます。