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ヘリオス劇場でのプログラムに参加して②

へリウス劇場や乳幼児演劇についての説明のあと、簡単なワークが行われた。その後、代表作である『木の音(Holzklopfen)』の映像をDVDで見た。この作品については論文で読んでいたが、映像として見るのははじめてだった。鑑賞後には、上演について意見が交わされた。

演劇、殊に乳幼児演劇に関しては具体例からはじめなければ、上滑りの議論になる。これは日本で経験したことだ。具体例なしに、「乳幼児演劇とは~」と定義めいたものを述べたとしても、例外はいくらでも見つかるので、話が先に進まない。具体的な事例を深く掘り下げることが重要なのだと感じた。


●感覚ワークショップ:耳をすます

感覚への意識を高めるワークである。乳幼児演劇では、創作においても観劇においても、ふだんとは異なる知覚を用いることにある。感覚に意識を向けるというワークは、乳幼児演劇のウォーミングアップには最適だろう。

やり方は簡単。まずは部屋のなかで自分が落ち着ける場所を探す。そこで腰を落ち着かせ、目を閉じる。それから周りの音に耳を澄ませる。息の音もなるべく小さくして、どこでどんな音がするのかを感じる。数分のあいだ、そうやって周りに意識を向ける。4~5分したら目を開ける。そして、近くの参加者と感じたことや気づいたことをシェアする。

参加者からは、遠くの方で車がいるとか、機械のブーンという音が聞こえたなどの経験が挙げられた。また、目を閉じて耳を澄ますという経験に関して、瞑想的だという意見があった。私たちはふだん、目による視覚情報を中心として世界を認識している。しかし、それはあくまで、私たちが視覚を中心とした文化のなかで生活しているからにすぎない。乳幼児にとって、五感のうち視覚をもっとも評価するような文化はまだ育っていない。だからこそ、乳幼児という観客にアプローチする際には、私たちが慣れきった知覚構成から距離を置く必要がある。目を閉じて耳を澄ませるというのは単純なワークだが、身体的にそのことを実感するには優れている。


▶『木の音(Holzklopfen)』鑑賞

ワークショップで少しばかり感覚についての意識を高めたところで、『木の音(Holzklopfen)』を見ることになった。実際に舞台で見たわけではなく、DVDによる映像である。それでもワークショップの準備があってよかった。おかげで、作品のなかにある感覚性に注意を向けることができたからだ。映像を見た後は、感じたこと、疑問に思ったことについて議論が行われた。

ロビーの様子から映像ははじまる。乳幼児演劇では、ロビーの段階から観客へのアプローチがとても重要となる。演者が直接、ロビーにいる観客にあいさつをする。俳優が一人に音楽が一人。この編成は、ほかの乳幼児演劇でもだいたい同じである。『木の音』では、演者は上下黒い服という以外、とりわけふつうの恰好だ。上演のはじまりの合図はゴングで、鈍い音とともに劇場内に案内される。

『木の音』とあるように、その素材は木である。舞台には木材のチップが敷き詰められている。黒い床に楕円形でまとめられていたチップは一つの島のようにも見える。チップをどう敷くかについては、紆余曲折があったそうだ。輪郭をはっきりとさせたのは、子どもに、ここから先が舞台で、観客席とは区切られた別の空間であることを示す効果があるのだと思う。輪郭があいまいだったころは舞台上にあがってくる子どもが多かったという。

チップの島の上には木の棒が立っていたり、切り株があったり、薪があったりする。俳優は薪を並べたり、二つの薪をぶつけて音を立てたりする。薪を斧で真二つにしたり、その木材を重ねて積み木のように組み合わせて遊んだりする。その様子は台本に書かれた美的なパフォーマンスをこなすというよりも、その都度その都度、素材をいろいろと新しく探究しているかのようだった。俳優はその人自身であって、何か特定の役を演じているわけではない。もちろん、俳優は何度も上演を繰り返しているが、その度に新しく素材の探究を観客とともに繰り返している。

乳幼児演劇にはオブジェクトシアターの側面も多くみられる。人形劇では、人形を一人のキャラクターと見なして演じるが、オブジェクトシアターでは人形として作られていないものを、一つのキャラクターと見立てて演じる。言葉にすると難しく聞こえるが、これは僕らが子どものころによくしていたことである。自分の手をキャラクターに見立てたり、消しゴムや鉛筆などの小さなものをキャラクターに見立てたりして、たわいもないやり取りをさせる。もちろん、『木の音』でも同様に、キャラクターが登場するシーンがいくつか見られた。木片が糸で串のように連ねられているキャラクターである。遠くからみるとミノムシのようで、木片のチップの上を跳びはねながら移動する。Tufuと鳴くことから、Tufuと呼ばれる。このTufuを操作するのは俳優であるが、そのときも俳優は俳優として舞台上に存在し、Tufuとたわいもないやり取りをする。

従来の演劇であれば、キャラクターが登場すれば、そこには物語があり、一貫した展開がある。けれど、乳幼児演劇にとっては自明ではない。『木の音』においても、Tufuは何度か登場するが、その順番や、そこでの行為に大したつながりはない。Tufuのほかに、同様の構造をした大きなTufuが登場する。キャラクターが登場するときに重要だと思われるのは、物語の展開ではなく、キャラクター同士の関係性である。Tufuはちょこまかと動くが、大きなTufuはゆったりと動く。性格の違いなどをそこに見ることもできるだろう。人によってはそこに親子の関係を見るかもしれないし、あるいは兄弟の関係をみるかもしれないが、制作側には定まった意図はない。

ほかにもいろいろなシーンがあったが、細かいことは忘れてしまった。さいごのシーンでは、俳優がスコップを持ち出して、木のチップに道をつくる。やがて俳優は観客の目の前まで道を繋ぎ、さあどうぞ、とでも言うように観客を道に誘導する。道は一本道ではなく、いくつもの道が交差している。これは、子どもたちがただ単に道を進むのではなく、道を行きながらも、自分でどの道を進めるか遊ぶことができるようにするためである。さいしょの子は、一瞬、ためらいを見せたが、いざ道に足をかけると、一心に道を見つめながら歩いて、また観客席に戻っていった。その様子を見た別の子どもがそれに続いた。そうやって何人もの子どもが木のチップのあいだにできた道を歩いた。およそ半数の子どもが歩いたところで、拍手がなり、演者たちはお辞儀をする。そうしてまた、ゴングの鈍い音がして、観客たちは退場していく。この退場のシーンは、道を進むというコンセプトは同じであっても、どう道をつくるのか、どうやって退場までもっていくのかについては、かなりの紆余曲折があったようだ。この作品はTheater von Anfang an!のプロジェクトによって創作されたもので、DVDには上演に限らず、子どもを招待しての稽古の様子なども紹介されている。

上演のあとは、ロビーで遊ぶことができる。ロビーにはいくつも木片が置かれ、それを用いて自由に遊ぶことができる。ただ木片が散らばっているだけでは大して魅力的な遊び道具とはならないだろう。上演において、木という素材を用いてどんなふうに遊ぶことができるのかを、子どもたちはすっかり見たばかりだった。木と木を叩いて音を鳴らす子どももいれば、人形のように見立てて遊ぶ子もいる。子どもたちは、この場で上演中に行われていたことを自分でやってみるのだという。たしかに映像を見るとその通りになっている。真似してみてから、自分なりの表現を探究する。乳幼児演劇は、遊びの見世物市のようなものとしても捉えることができるかもしれない。


▶鑑賞後の議論

・対概念
鑑賞後の議論では、大きいと小さい、騒がしいと静かなどの対となる要素が多いことが指摘された。Tufuの例が顕著であるが、それ以外にも、木と木を打つときや、木を並べるときにも同様に対となる要素が見受けられる。これに関してはゼミで読んだイーガンを思い出す。イーガンは人間の成長について理解様式という独自の視点から論じている。イーガンが提起している理解様式には、身体的、神話的、ロマン的、哲学的、アイロニー的理解の5つある。イーガンの詳細な議論ではそれぞれの理解様式が次の理解様式の土台となっていることを示しており、身体的理解や神話的理解が哲学的理解やアイロニー的理解に劣るものとしては捉えていない。上演においては、対概念に伴いリズムが生じる。イーガンによれば、対概念もリズムも神話的理解の特徴である。乳幼児演劇を理解するときにイーガンの議論は参考になると思う。

・即興
乳幼児演劇に即興の要素はあるのか、という質問が挙げられた。同様の問いについて、インプロを専門とする友人とも議論したので、何だかうれしかった。結論から言えば、即興の要素はある。即興の要素はあるのかという問いはこの場では、子どもを相手にする経験の多い参加者から挙げられた。子どもを相手にする現場では、常に即興的な対応が求められるためである。乳幼児演劇の上演では、どんな段取りでパフォーマンスを行うか、ということはある程度決まっている。けれども、セリフや動きが完全に定まっているわけではない。子どもの反応を見ながら、パフォーマンスの流れが変わることもあるという。そのときそのときの観客の様子に応じて、コミュニケーションをとる必要がある。それゆえ、観客との関係づくりが重要であり、上演前にロビーで交流することが多いのはそのためである。舞台と観客席を隔てる第四の壁は存在せず、常に直接的なコンタクトがある。

・物語
乳幼児演劇に物語はあるのか、乳幼児演劇における物語とはどんなものか。物語という視点は乳幼児演劇についての議論でしばしば見られる。これもまたTufuの例が分かりやすい。物語がないわけではないが、ふつうの演劇に求める物語とは異なっている。乳幼児演劇における物語の特徴を挙げるとすれば、非線形であること、断片的であること、結末がないことである。物語というよりは関係性と言い換えてもいいかもしれないという意見があった。これは演劇についても言えると思う。また、常にテーマ(素材)に戻ること、という点も挙げられた。乳幼児が舞台に上がってしまうことは意外と少ないというが、それは舞台上に一つの世界をつくり上げていることによるのかもしれない。

・保護者
乳幼児演劇では、乳幼児が一人で観劇しに来るわけではないので、保護者が伴う。この保護者の存在もまた、従来の演劇の枠組みでは捉えにくい要素である。中心となる観客は乳幼児であるが、その乳幼児が安心して観劇するためには、保護者の存在が不可欠である。保護者が不安になれば、子どもも不安になるからだ。保護者は子どもの付き添いであるが、付き添いに徹すると、子どもは楽しめない。「あれ見て、これ見て」と視線を強要するのも、あまりいただけない。あくまで、共に経験する(zusammen erfahren)姿勢が重要である。

・不安
子どもにとって、道の空間に入るのは、不安を伴う。暗闇を怖がる子どももいるので、舞台上は薄暗くとも、暗転することはない。ときとして、少し挑戦的な演出をすることもある。どの程度、挑戦的なことができるのかは、観客の様子を見ながら調節するしかない。『木の音』では、斧で木を真っ二つにするシーンがある。かつてこのシーンは、子どもたちに怖がられていたという。しかし、ミーティングなどで話しているうちに、俳優自身が斧で木を切ることを怖がっていたことに気づいたという。不安は伝染する。俳優が斧に慣れるにつれて、怖がる子どもも減ったという。不必要な不安は取り除き、安全に挑戦的な経験をさせることもまた、乳幼児演劇にとって重要だろう。

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