アジア児童舞台芸術フェスティバル2018を見て

2018年2月22日〜25日
アジア児童舞台芸術フェスティバル2018

国立オリンピック記念青少年総合センター(以下、オリセン)で、アジア児童舞台芸術フェスティバル(以下、アジアフェス)が開催された。アシテジという国際的な児童青少年舞台芸術の協会による、アジアにおけるフェティバルである。アシテジでは3年に一度、世界大会を開いているが、次の世界大会が行われる2020年には、東京でその世界大会が開かれる。今回のアジアフェスはその世界大会に向けてのものであり、2020年までに新しい児童舞台芸術の基盤づくりのために、アジアの児童舞台芸術の上演はもちろん、さまざなワークショップやシンポジウムが開かれた。

卒論でオースリアにある児童青少年向けの劇場、ジャングルウィーンについて書いたことから、日本における児童青少年演劇についても知らなければと思い、ボランティアに参加してきた。ボランティアの方々の多くは児童青少年向けの劇団の人びとであり、もっと言えば、このアジアフェスの運営の大体は、そういう人びとに支えられている。

・ベイビーシアター
新しい児童舞台芸術として児演協がとくに力を入れているのはベイビーシアターだ。Theater for very young、乳幼児向けの演劇とも言われるこのジャンルは、言葉や筋立てによってドラマを見せるのではなく、身ぶりや音楽、インスタレーションを駆使して、観客であるベイビーの感性を刺激する。そのためベイビーシアターにおける観客–俳優の関係は独特である。例えば、観客にはベイビーだけでなく保護者がいる。ベイビーは保護者が安心しているかどうかに影響され、保護者はベイビーの反応に刺激を受ける。俳優はこうした特殊な観客に気を配りつつ、パフォーマンスをすることになる。それゆえ、気をつけることが多く、パフォーマンスは独りよがりにはなってはならないし、それはつねに観客とインタラクティブなものになる。舞台と観客席は、明確に区切られていないことも多く、舞台というよりは参加可能なインスタレーションに近い。そこには多感覚を刺激するような仕掛けがあふれているのだ。

・シンポジウム
上演作品だけでなく、シンポジウムも興味深いものが多かった。その内容は、さいきん、文化芸術振興法から文化芸術基本法に変わったが、どんなふうに文言が変わったのか、それによりアーティストはどんなふうにアプローチできるのかというものであり、学校公演を行う児童青少年演劇の人びとにとって、文化芸術基本法は盾にすればうまくアプローチできるかもしれないという話しだった。シンポジウムの登壇者には、アシテジの理事の方や、劇団の人、劇作家の人がいたが、それぞれの人から児童青少年演劇の危機と可能性について深い話しが聞けた。

児童青少年演劇は生徒の×何百円で運営しているが、それだと少子化によって人数の少なくなった学校の子どもたちを切り捨てることになってしまうこと。さいきんは教育に英語教育や道徳教育が入ってくることで、学芸会や演劇鑑賞会がますます少なくなり、学校のなかに演劇が参入することが難しくなるだろうことなどが話された。児童青少年演劇がどうして子どもたちに必要なのかという話は共感した。そうした議論はたくさんあったが、一つは次のようなものだった。格差があからさまに広がる今の社会で、貧富の差も、それから年の差も関係なく、みんなで一つの作品を見るという体験はとても重要なものだ。このとき優れた作品を鑑賞するということも大事だが、何より観客同士の反応が見えるということに大きな意義がある。人はどこで笑い、どこで泣くのか、あるいは飽きてしまうのか。学年が異なれば笑うポイントは異なるだろうし、貧富の差があっても同じところで笑えるだろう。こうして多様な人びとがいるなかの一人として自分を認識できる。こうした体験は誰にとっても大切で、子どもを見ながら演劇をつくっている児童青少年演劇だからできることだろう。

2月22日
児演協
『KUUKI』
演出:Alicia Morawska-Rubczak
美術:Barbara Małecka
音楽:かとうかなこ

ボランティアに参加する前にベイビーシアターの一つを見に行った。アジアフェスの会場であるオリセンには、大・小ホールと体育館、それから中・小練習室がいくつかある。 この作品は、体育館の一角にステージが作られていた。カーテンの前に二人の演者と、アコーディオニストがいる。二人の衣装には大きな布がつながっていて、それを伸ばしたり、たなびかせることで布のうねりや、それに伴うダンスが生じる。

2部構成であり、前半は観客はふつうにパフォーマンスを眺めることが求められ、後半になるとカーテンが開いて、その奥に入ることができる。カーテンの奥には木箱にとめられた風船が並んでいて、木箱を持ち上げると風鈴や苔玉、ガチャガチャの透明のボールなどが出てくる。演者がベイビーの目の前やとなりで、それらの小道具で遊んでみせることで、ベイビーも遊び出す。このとき演者のパフォーマンスを見る必要はなく、ベイビーが好き勝手に遊んでいて、子どもが遊ぶことで、保護者もそこに加えわる。こうしたさまが全体として美しい。

何をもって演劇とするかはたくさんあるけれど、この作品を見たときには演劇の定義を再び問い直さなくてはならなかった。しかし、少し考えてみると、この作品にも見る–見られるの関係があり、美的に演出された空間と時間を観客と俳優が共有している。物語の筋はないけれど、そこにいる人びとの感性が刺激されるという点においては優れて芸術だと思った。

2月23日
トカッタ・スタジオ
『宇宙時代』
演出:ング・チョル・グアン

イスラエルのカンパニーによる『宇宙時代』は、演劇というより音楽とメディアアートをかけ合わせた上演だった。音楽家にはピアノにホルンにヴァイオリン、そしてテルミン(手をかざすと音が出るやつ)がある。背景の白い衝立に、星座とも原子図とも見えるような点と線による映像が映る。音楽と映像が組み合わさることで、宇宙的なイメージが表現されるけれど、宇宙的といっても、広大で神秘的な宇宙というより不可思議な宇宙、空間的な宇宙というよりも概念的な宇宙が表現されている。表現されているというよりも、音楽と映像を見た観客が感覚的に宇宙を感じると言った方が近いかもしれない。テルミンと他の楽器による音楽は、メロディを奏でているという感じではなく、まったくの現代音楽だ。映像の方も、ときに激しく点滅したり、ときにいろんな絵の具を混ぜたような、ややグロテスクなイメージが映る。なんだか過激な映像芸術にも見えて、これは子ども向けなのだろうかとも思ったが、意外と泣き出す子はいなかった。もしかしたら大人は未知なるものに恐怖の感情を結びつけがちだけれど子どもにはそんな結びつけはないのかもしれない。

2月24日
シアターH
『目』
作・演出:ハン・ヘイミン

青い作業着に、黄色の髪という出で立ちが目を惹くパフォーマーのハン・ヘイミン。バケツをもち、モップをもち、掃除をする道化を演じる。バケツのなかから取り出したのはマンガのような目。それを自分のメガネにくっつけていろんな表情になったり、バケツやモップに目をくっつけたりすることで、それをオブジェクトシアターのように生き物にしてしまう。上演では、何度か観客が巻き込まれ、パフォーマンスに参加させられる。例えば、モップの犬を子どもに可愛がらせたり、客席に座る観客にマンガの目をあてがってからかったりする。

後半になると、道化が疲れて眠り、バケツに険しい目が宿って恐ろしい魔物のように動き出す。道化はそれに気づいて、どうしようかと観客の方に助けを求める。観客は何をさせられるのかというと、キュートな目に張り替えることで友だちにしてしまおうというわけだ。二人の子どもたちが参加し、ドラマチックなBGMの末に、ぶじに任務を達成して、ハッピーエンドとなる。

参加してくれた観客には目の描かれたシールが配られたが、パフォーマンスが終わるとその場にいた観客全員に目が配られた。目を貼るというアイデアは面白いし、そこに掃除用具というまた別のテーマが加わっていることが、この作品を面白くしているのだと思う。

緑葉劇場
パパ《爸爸》
構成・演出:アタ・ウォン・チュン・タット

黒子の演者たちは仮面や衣装を着替え、また小道具を駆使することで流動的な舞台を動かしている。戸やテーブルにはコロがついていて、舞台がどんどんと組み変わっていく。セリフはなく、舞台上の小道具と身振りだけで物語が描かれる。おかげでところどころ分からないところがあったけれど、一人の男のもの悲しい一生を描写したものであることは分かった。

冒頭では古典的な幸せな家庭が描かれる。奥さんがいて、子どもがはしゃいでいて、父親が肩車してあげる。しかし、そんな幸せもつかの間、父親は仕事にあくせくし、家庭から遠ざかる。やがて仕事もうまくいかず、仕事の看板は壊され、家庭も崩壊する。途方もくれたところで、面倒だが愛すべき老人たちに振り回される。そこにおっかない職員やってくる。男は老人ホームに入居しているのだ。

老人ホームでの生活はなんとも退屈だ。ボケた老人と、彼らを大人扱いしない職員とともに日々の時間を過ごしていく。年をとるとはなんとも寂しいことだろう。過去の回想が挟まり、家族がバラバラになった日のことを反芻する。当初、老人ホームで一番しっかりしていた男は、気づけばそこを通りすがった小柄な老人を自分の子どもと錯覚して抱きついてしまうようなアルツハイマーになっている。

男は絶望して老人ホームから出て行こうとしているときに、さきの小柄な老人とぶつかってしまう。彼は小粋なやつで、よく腕に入れた刺青を自慢してみせるようなやつだ。彼はそのときに落ちた男の家族の写真が拾い、男のことを思いやる。二人はともに老人ホームを飛び出し、タクシーを奪って道路を突っ走る。若かりし頃の青春を再現するかのように突っ走る二人。老人だって若々しく生きていくのだ。そんなポジティブなメッセージさえ感じるときに、突然、クラッシュ音が入る。スポットライトが灯ると、そこにはオモチャがポツンと置かれている。おもちゃは男の家族との思い出の品だ。男は家族との思い出を憧れながらその一生をあっけなく終えたのだった。

2月25日
ネクストジェネレーション
インアジア
構成・演出:大谷賢治郎
音楽:青柳拓次

アジア14カ国から次世代のアーティストが集まり、2015年から実施されていた3年間のワークショッププログラムを経て、ここに一つのコラボレーション作品が上演された。国だけでも14あるので、舞台上には演者がたくさんいた。彼らの身ぶりや声、それから集団全体のリズムによって演劇が表現される。

衣装は上下が黒で白いマスクで統一されている。一人がダンボール箱を運んできては、テトリスのようにダンボール箱で壁を積み重ね、それから正面を向いて立つ。こうして次から次へとマスクを着けた演者がダンボールを運んでやってくるが、最後の方ではマスクをつけていない人や、プロレスのマスクを着けてくる人がいる。これがズレとなって笑いを生んだ。

今度は、一つのダンボール箱をもとに、即興的な短いモノボケが行われる。一人の演者が提案して、別の演者がそれに乗っかっていって、ドラマが生まれる。個々のモノボケはテンポがよくて展開もしっかりしているから、おそらくワークショップのなかで作られたものだろう。即興感を残しつつ、全体としては整えられている。ダンボール箱はトイレにもなれば、携帯電話にもなる。

秀逸だったのが次のようなモノボケだった。ダンボール箱を横たえて、そこに演者がずらりと並んで、マスクを付けて手を掲げると、ダンボール箱は手術台になる。このとき、外科医だけでなく、手術室の窓から患者を見守る人、窓のカーテンを閉める人など、具体的な動きに展開していく。声は出していいので、心電図の音が口マネされ、ピッピッピッという音が途絶えたことで患者が亡くなったことが分かる。手術台が運び出され、それがそのまま棺となり、最後には暮石となる。一連のドラマのなかで、ダンボール箱が次々と別のものへと変化していくのが見事だった。

他にもダンボール箱が組み替えられたり、ダンボールの人形が登場したり、小道具との組み合わせで別のテーマが演じられたりとさまざまな手法の小劇が次々と展開していった。

舞台ではさまざまな言語が飛び交うが、ここでは言葉の正確な意味は重要ではない。異なる言葉を話し、異なる身ぶりをもった人びとが、一つの演劇作品をつくっているということが重要なのだ。意図的なアジアらしさはまったくないけれど、アジアのアンサンブルは確かにそこに成立していた。

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