【演劇教育ゼミ】一学期過ごした雑感

演劇教育学のコースなので、シアターゲームをいろいろやるのかと思っていましたが、そうではありませんでした。ただ単にシアターゲームをうまくやるだけなら、実際にやる経験をつめば自ずとうまくなるでしょう。演劇教育学で扱うのは、シアターゲーム運営の腕前ではありません。どういう文脈のもとで、どういう活動を行うのか、そして、その活動によって何が起こるのか。こうした視点を磨くのが演劇教育学だと思います。

FAUの演劇教育コースでは、文化教育学、演劇学、演劇教育学の3つのモジュールから構成されています。ざっくり言えば、文化教育学では教育とは何か、演劇学では演劇とは何かについて、さまざまなテクストをもとに議論します。では演劇教育学では何を扱うのか。1学期過ごした印象では、広い意味での演劇的な活動を現象学的な視点から捉え、そこで起こっている現象について教育学の視点から意味付けするという感じです。もし学校で行うなら、のような仮定の問題は扱わず、<今ここ>をどう深く捉えるか、ということに主眼があるように思いました。

<今ここ>を見つめる態度はとても重要だと思います。なぜなら、架空の参加者を想定したとき、どれだけ具体的に想像したとしても、それは想像上のものでしかないからです。そして、想像上の状況をするときには、どうしてもクリシェに囚われます。ワークショップの準備として対象となる参加者を想定することになりますが、そのワークショップが実際にどのような出来事となるのかは、そのときになってみないと分かりません。表面上ワークショップがうまく進んだとして、参加者にとってどういう体験になっているのかを問うような視点がなければ意味がありません。<今ここ>を見つめる態度がなければ、ワークショップのパッケージ上のロジックに留まってしまうでしょう。ただの実践家ならそれで構わないと思います。しかし、専門家としては不十分です。

専門性(Professionalität)の問題も何度か議論として挙がっていました。まったく個人的な感情ですが、「プロフェッショナル」という言葉が嫌いでした。「プロフェッショナル」という言葉には、責任と誇りのニュアンスが付きまとい、変に美化されているように感じていたから、根性論とプロフェッショナリズムが同じ地平にあるように感じていたからです。演劇教育学のゼミで教授は、専門家である(Professional)ということは、自分で自分の活動の定義を説明することができ、なおかつ自分の活動に対して自分で問いを立て、探究することができることだとしていました。また、文化教育学のゼミの教授は、専門性の議論では排他性(Exklusivität)の議論を避けては通れないと話していました。こうした視点はなかったので、言われてみれば確かに、と思いました。

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