座・高円寺の『ピノッキオ』を見て

2018年9月15日 座・高円寺
『ピノッキオ』
原作:カルロ・コッローディ
脚本・演出:テレーサ・ルドヴィコ

毎年秋にレパートリー作品が上演される「劇場へいこう!」というプログラムで、今年は『ピノッキオ』と『フランドン農学校の豚~注文の多いオマケ付き~』が上演される。今日はそのうちの『ピノッキオ』を見てきた。

木でできた操り人形で、いたずら好きで、嘘をつくと鼻が伸びて、あれこれあってさいごには人間になるという『ピノッキオ』の話は、童話らしく教訓めいていてお説教くさいと思っていたが、『ピノッキオ』が新聞で連載されていた当時は、子どもたちから大人気だったそうだ。『ピノッキオ』のおもしろさが、今日の上演を見て分かった気がしたが、それはテレーサ・ルドヴィコの優れたドラマトゥルギーのおかげかもしれない。一時間ちょっとの上演のあいだにピノッキオはとてもたくさんのことを経験し、それはときに恐ろしい経験であり、絶望的な状況に陥ったりするが、ピノッキオにはいつだってジェペットおじさんや仙女さまといった帰るべき場所が待っている。それはまるで、ふざけて悪いことして、その結果泣きじゃくるような状況になっても、なんだかんだで安心できる家に帰ることができた幼少のころそのままだ。安心しては冒険して、不安になったらまた落ち着いて。演出家は「わたしはこのお話を、人生の旅のように考えました」とパンフレットで語っているが、まさに揺れ動く人生の渦を、夢のように駆け抜けたような上演だった。

さまざまなシーンの移り変わりは、お城や森のシルエットが施された半透明の幕によって、登場する動物たちは半透明の立体的なマスクによって表現されていた。これに幻想的な照明効果と効果音が加わって、夢うつつのようにして『ピノッキオ』の上演は進んでいく。こうして目まぐるしくシーンが展開する舞台が成立するのは、俳優の身体表現の力量によるところが大きい。ピノッキオが誕生するシーンは、木でできているため、どこかぎこちなく、それでいてかろやかな動きであるし、コオロギはゆったりと、しかし正確な動きをしている。たった7人の俳優で50近くもの役を演じているが、それでいてそれぞれの役が薄まらないのは、衣装に加えて、きちんと身振りがつくられているからだろう。それぞれの役の身体性は、大きな見どころの一つだ。

それでいうと素晴らしいのが、さいごにピノッキオが人間になるシーンである。ここが安易な喜びや驚きといった感情的な表現ではなく、やはり身体的な表現に重きが置かれている。眠りから覚めて人間になったピノッキオは、自分の体をまさぐり、それから腿を上げて力強く踏み込む。これが芝居とダンスが混じったような表現になっている。それまでピノッキオは操り人形よろしく浮ついた感じで軽やかに動き回っていたが、人間になるとしっかりと自分の足で踏み込むのである。あいかわらず動きが機敏であることは変わらないものの、きちんと地面を踏み込んでいるという点で、操り人形だったころと大きく異なる。そして、それをもっとも象徴するのが、靴を履くという行為である。ピノッキオが人間に変わる夜に、仙女さまの使いであり、冒頭からの登場していたカタツムリが、そっと靴を置いていったのだ。

こうして人間になったピノッキオを見て、演出がファンタジーめいたものから大きく変わったこともあり、衝撃的な仕方でファンタジーから現実へとつなげられたような感じだった。衣装が現代的なのは、こうした効果を狙ってのものだ。さいごにピノッキオは舞台から客席へ飛び下り、観客を横に階段を上っていく。このときの俳優はピノッキオというよりも、もはや私たちと同じ世界に生きるたくましい人間の一人だった。

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