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余生だと思っていた 【2024年note納め】

以前にも書いたことがあるが、私は元々地方の役所に勤める公務員だった。女性でも長く働ける安定した職業。当然、定年まで勤めるものと思っていたが、知的障害のある息子の特別支援学校進学に際し、生活上どうにも調整がつかなくなり早期退職した。
40代半ばの頃だった。
その時は、それまでの家事・育児(息子の療育を含む)と仕事の両立に疲労困憊していたので、20年以上仕事を頑張ってきたのだから残りの人生は余生と思い息子の養育に専念しよう、と思っていた。

ところが、息子が学校にも慣れ登下校もできるようになると、途端にすることが減った。ある時、何らかの理由で2世帯同居していた義母の通院付き添いができず断ったら、夫から「家にいるくせに」と罵られた。20年以上共働きをしていても主婦になるとこう言われるのかと、悔しくもあり情けなかった。役所時代のことが役に立つかも、と本部役員を引き受けたPTAも、仕事とは違う母親達の世界に馴染めず、早々に挫折を味わった。

肝心の息子は、元気に通学していたが知的には一向に伸びない。療育手帳の等級も重くなるばかりで、ここでも行き詰まってしまった。
何のために退職したのか。何のために生きているのか。
「余生」なんて枯れたつもりでいたが、まだ執着があったのだ。しかし今の私には仕事も何もしたいことがない。この退屈な余生があと何年続くのか。何もする気力が起きず、最低限の家事と息子のことだけをこなすのが精一杯の時もあった。

50の時、ある病気を患った。開腹して腫瘍を取り生体検査をしないと正確なことはわからないが、悪性の可能性があるという。息子はまだ就労先も決まっておらず、悪性だったら困るなぁ…あと数年は生きなきゃ、せめて息子の行き先が決まるまでは元気でいたい、と強く願った。まな板の上の鯉の如く手術台に上がったが、結果は幸いなことに良性。主治医からそう知らされた時は嬉しさと安堵のあまり号泣した。

その後はやりたいことをやる、行きたい場所に行くことにした。人生何があるかわからない、悔いを残したくないと思った。美術鑑賞に嵌まり美術館をはしごし、行きたい場所へ旅をしたり、仕事もパートながら再開した。

概ねやりたいことができていたが、次の挫折は2ヶ所目のパート先での陰湿なパワハラだった。後から漏れ聞いたことだが、パワハラしたひと達は、私が「家族がいて学歴職歴もよく、ゆったり幸せそう」なのを妬ましく思っていたらしい。何それ?と言い返すだけの強さが当時の私にはなく、逃げるように職場を去ったが、心に深い傷を負い他人との交流を避けるようになった。世間は幸いコロナ禍で、外出制限もあり引き籠るのに好都合だった。

引きこもっていた私に、SNSで知り合った歴史仲間から共著の歴史本への寄稿の誘いがあった。予てより長崎の歴史を書きたい気持ちがあり、ちょうど時間ができたこともあって引き受けた。書くからには生半可なものは書けない。様々な文献を読み漁り書いたのが『反関ヶ原合戦』に掲載された「肥前国関ヶ原」。今にして思えば論考も浅く足りない部分も多いが、当時は精一杯の作品で、発刊された時はとても嬉しかった。
そして本の執筆を通して歴史仲間が広がった。それまでライトな歴史ファンに過ぎなかったが、こうして読んで下さる人がいるのなら本気で取り組んでみよう、と思った。

…私の再生は、こうして共著本『反関ヶ原合戦』の執筆に取り掛かった2021年から本格的に始まった。
その後3年が経った今年。秋には1つの区切りがつき、また新たなスタートを切ったように思う。


来年の2025年はどんな年になるのか。
スピリチュアル界隈では「大変革の年」と言っているが、今の社会情勢を見ていると当たっているようにも思う。世界が、社会が、周囲が、目まぐるしい変化を迎える中で、私自身"己"を保つことができるのか?わからないけれど、極端にどちらかの意見に傾くことなく常に「中庸」でいることを心がけたいと思う。

どんな暗闇の中でも、心にある火を消さないで、自分を信じて進んでいきたい。
余生なんかじゃなかった。
再生した私の人生はまだまだ続く。

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1年間、私のnoteをお読みいただきましてありがとうございました。
これにて2024年のnote納めといたします。
どうぞよいお年をお迎え下さい。

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ひとみ
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