この世界のコンテンツの地平線
1ヶ月某企業で組み込みソフトウェア系の長期インターンをしてきた。
長期インターンは非常に面白かった。そこでは様々な種類の人々に会えたり、理論的には知ってることが実際のハードウェア上で動いてる様を見れて「自分でもできるのだ」という感覚が肌に染み付いた。
どれだけ知識を集めても目的がなければ何も生まれないし、逆に目的と目標を作ってから知識を集めようと思っても、結局集中して局所的に知識を編纂しなければ、情報がないゆえにその目的と目標が曖昧で言語化できず何も生まれない。こういったジレンマにずっと悩まされてきたということにようやく気づけた期間でもあった。(なお、このジレンマを脱するのが教師・先輩・上司であり、先んじてスタックするポイントを示してくれる存在なのだろう。)
さて、この1ヶ月私は東京に住んだ。二十数年間ずっと福岡にいざるを得なかった人生を歩んできた自分にとってこの1ヶ月は非常に楽しかった。藝祭にも行ったし、美術展にも行った。比嘉さんに会いにComputer music party [1]に出向いたり、暴力的にカワイイ [2]へ行き、原口沙輔氏やgaburyu氏の演出を生で見れたのは光栄だった。
他にも色々やったが、そこで感じたことは、いよいよ(というか、ようやく)鑑賞すること・体験することに飽きてきたという点である。
鑑賞・体験することは確かに楽しい。自分の知らなかった世界を見せてくれるし、知らなかった感情を教えてくれる。しかし、鑑賞・体験することは常に疎外感が存在する。その場にいるんだけれど、その場と繋がれていない感覚。楽しいのに虚しさも同時に感じる、どこか他者と繋がれていない感覚。そういったものが確実にある。その場に私はいるのに、自分とその場は分断されていてその場に入ることができない、決して分かち合えない溝がある。
体験することは、ある意味で「所詮この程度のものに夢見ていたのか」という感覚を与えられることもあったし、それは良いことなのだろう。(これは先にあげたもの以外に対する言及です。具体的に何かは控えます。)ようやく憧れていた幻想から解き放たれ、自分の内面と対峙できるようになったと思う。誰かの作るものに憧れて真似をして、それでもできなくて嫉妬に塗れるのではなく、世間にとってはどうでもいいことだが、自分にとっては気になる、見てみたいというものにようやく向き合う決心ができたように思える。
この世にある大衆コンテンツや一般の人々が好んでやってることも「所詮この程度か」とわかったし、虚しくもなった。昭和・平成に培ってきたそういったコンテンツには愛もなく、資本主義的な分断の上に成り立っているものであるとも自覚した。こんなものを享受するためだけに働きたくはないとも思えた。
もっと僕らは自己顕示欲を満たすための社会を作るのではなく、相互に認め合い助け合える社会を作るべきだろう。今まで悪いと思っていたものは資本主義の視点から見て悪いとしているにすぎないし、その”悪い”とみなしているそれも結局資本主義的ないしは権威主義的な搾取によって生じた結果でしかないように思える。善だと思っていることこそ疑うべきだ。
とりあえず私はSNS、Youtubeを控える。これからはもっと自分のために人生の時間を使いたい。搾取される人生から逃れ、自分の大切なものを見つける人生を送りたい。
参考:
[1] https://x.com/satoruhiga/status/1834545176888443281
[2] https://x.com/gabustep/status/1839533029531984001