五十肩をきっかけに見直した元研究者の現在と過去

このnoteは自分語りでしかない。

まずは過去の話をしよう。

四半世紀前、
文理融合的な「人間科学部」という学部に入って、まず叩き込まれたのは、人文科学や社会科学が自然科学のように「科学」を名乗るために取るべき態度だった。
自分と研究対象の主観と客観。

研究主体の自分自身が主観を排した「神の視点」には決して立てないこと。
主観も客観もすべて疑いつつ、共通する言語を使って、
後の世代に少しでも託していく。
それが研究だと教わった。

そのために、カギカッコの取れない「客観的」を客観的にするために、19世紀以降の心理学や社会学の祖がいかに苦労してきたか。
全部、学部2年までに学んだ。

その後就職して2年働いた。バブル末期で採用人数が400人ぐらいいた中、
私はなぜか一人だけスタッフ部門に配属された。
そして経営管理や品質管理や教育や研究発表をするようになった。
学会や研究会に参加し、研究発表で社長表彰ももらった。
同期のみんなほど忙しくなかったので、当時の情報処理技術者試験の勉強も
できて、1年目で第二種、2年目で第一種を取った。

そんな中、経営管理や企業内教育をする側として仕事をしていて覚えた違和感がある。
この「管理」や「教育」は何をしているのだろう。
少なくとも教育は、私が学部時代に学んだ教育学とはまったく異なる地平にある。というか、教育学の知見を知らない人たちが作り上げた世界に見えた。
当時品質管理学会で講演や発表を聞いていて、「大学は学生を教育して企業という顧客に売るのだから、もっと市場のニーズを捉えた教育をすべき」というような言説をよく耳にした。
冗談じゃない、と怒りが湧いた。
そもそもいろいろ間違っている。
このあたりの間違いを正したいと思って、会社を辞めて院に戻った。

でも
院生としていろいろ頑張って博士号まで取って、

気がついたらボロボロに消耗して、この先の希望も持てなくなっていて、
もうこの生き方をしていくのは無理だと思った。
だから研究者であることをやめた。

動けなくなって人並みに働けるようになるまでに10年ぐらいかかったし、
当時のことは思い出すだけで手が震えるぐらい辛くて、
なるべく思い出さないようにしていた。

そんな中で自分にできることとお金を稼げることをすり合わせて必死に生きてきた。

その結果、25年後、今塾講師とか受験教材作成とか翻訳とかいろいろやって、それなりにお金を稼げている。
(メンタルの安定と銀行の残高は比例すると本気で思っている。100万切っ た時は本当に辛かった。
今はいきなり無収入になっても仕事先を探せるし
それまでの間、食いつなぐこともできるので、心配はしていない)

で、今の話。
今回五十肩になって、整形外科のリハビリと、五十肩の治療に実績があるらしい鍼灸院を併用している。

この間リハビリに行ったら、新しい人に施術してもらったんだけど、その人がぐいぐいと過去に食い込んできた。
それで、今まで面倒で誰にも話していなかった上記の経歴を話す羽目になった。
そうしたら、研究者をやめた話を「なんかもう、知りたいことを知ったからいいなって思ったんです」とまとめることができた。
これは初めての経験だった。
なんか、自分で話して自分ですごく腑に落ちた。

そうか、あの時私は知りたかったことを知れたんだ。
そして知った結果、現実を変えようもないということもわかっていろいろ諦めた。
でもよく考えたら、知ることと現実を変えることは別なわけで、知って材料は提供したから、私の仕事はもう終わってる。

そして自分にできることを模索して、全然違う方法ではあるけれど、今のように生計を立てられている。

じゃあもういいじゃん。
だったら、あそこで離れたのはよかったんだ。
むしろだからこそ今、自分がやって楽しいことを仕事にして、そこそこ稼げるようになった。これでもう十分だ。

だから思った。
私はこれまでに自分に蓄積した知を、今後はもう、自分が楽しく生きるために使おう。
権力の源泉にはもう絶対にしたくない。
(この間弓道連盟の副理事長から顧問になるためにちょっとやってしまってしまったけど、もうやらない)

(こう思っていたところに、長年称号者としてパワハラをしまくっていた人が、周囲に避けられた挙句に「称号者」として認識されなくなった事態があったので、笑ってしまった)





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?