幕間:星に願う庭にて
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凶悪な魔物が跋扈し、天然の致死性トラップ蔓延る高難易度ダンジョン、ワロスウッドの森。その奥深くに、"星に願う庭"の名を持つ、いかなる魔物をも寄せ付けない穏やかな一角がある。
立ち入る魔物が無いのはつまり、その一角が、より強大な力を持つ"主(ヌシ)"の縄張りである事を意味する。圧倒的な力の差を前に挑まんとする命知らずも今はなく、諍いや死を苗床とする「プギャ沼」の誘因も絶えて久しい。
怪物は座して待つ。街から奪い取った堆い宝の山の上で。待ち続ける。
「ハニー!かわいこちゃん!ケンカは良しなって、こっちのオモチャはお気に召さないかい?」
「ヘイダーリン!オヤツの前には手を洗うのが紳士の嗜みってヤツだぜ!」
"星に願う庭――ジミニーガーデン"に、今日も今日とて子供達のはしゃぐ歓声と一匹のウサギの世話焼き声が賑々しい。特に、お昼寝前のこの時間は彼にとって戦場だった。程よくエネルギーを消費させ、腹を膨らませ寝入らせなければ、庭の外へ晩飯を狩猟に出る事もままならぬ。
わたしは分厚い眼鏡越しにその奮闘ぶりを眺める。子供たちの笑顔、泣き顔。屈託のない感情の表出。満たされている事の証左。中心には彼がいる。ウサギの怪物。この縄張りの主。
やがて子供たちが眠りに落ち、葉擦れと風の音が庭を支配すると、わたしの視線に気付いたウサギは子供たちに対してするように、おどけた調子で言葉を投げかけてくる。
「どうした、お嬢ちゃん。前みたいに、『お肉が食べたい』なんて言ってくれるなよ?たまにはおさかなさんもいいもんだぜ。」
「相変わらず、他の子供達と同じように接するのね。あなたの嗜好と合致する身体特徴は持っていないはずだけど。」
「見た目の問題じゃ無いのさ。初めて会ったときのお嬢ちゃんほど、かつて俺の胸をときめかせたオンナは居なかったぜ。」
子供好きがすなわち小児性愛を意味する道理はなく、単なる軽口だ。買い言葉で返す彼の軽口にもわたしは表情を崩さない。この庭においてわたしが装う事はない。道化の仮面も、悪の科学者の役割(ロール)も。彼に対しては不要で、無駄だからだ。装う事をわたしが覚えたのは、この庭で彼と出会って暫く後のことだった。
「ねぇ、マーダー。子供たちは……どうなるの?」
問いかけられたウサギは、首を傾げて質問の意味を吟味する。我ながら乱暴な質問だ。彼なら意を汲んでくれるものと、甘える気持ちがあるのかもしれない。
マーダーケースブック。どういう意図があってか、ウサギはそのように名乗っている。物騒なのが名前だけではない事は、彼の狩猟を一目すればよく分かる。訓練された体術――暗殺術。今でこそ対象は魔物や野生動物に限られているが、たとえ矛先が人に向けられようともその冴えが衰える事はあるまい。
「心配しなくても、とって食ったりはしてねぇよ。そんな事の為に世話焼いて、太らせているわけじゃない。」
肉ならもっと楽に手に入るし、そもそもウサギは草食だと、どこから調達したものかシガーチョコレートを咥えて笑う。わたしは表情を動かさない。聞きたいのはそういうことではない。
わたしがここを訪れてから、子供たちの顔ぶれは少しずつ入れ替わっている。消えるのは大体年嵩の子で、同じ数だけの暗い顔をした幼子が、ほんの前まで同じ境遇だった先輩達にあやされるのがお定まりのサイクルだった。庭に抱えられる子供の数には上限もあろう。消えた子供は、今どこで何をしているのか。
「……そりゃ、街さ。こいつらが本来居るべき場所、一番輝ける場所に。自力で生きて行けそうになった順に送り出す。後の事を考えりゃ、なるべく早い方が良い。」
どうしているのかは分からない。ただ、信じて送り出す他は。便りが届く事はない。読み書きを知らないからだ。街に打ち棄てられた"宝"を森へと奪い去り、ともかくも生きる糧を与える。それは力ある怪物にこそ為せる業であり、しかし、人の世で生きる術を十全に授ける事は、一匹のウサギの領分を超えてもいよう。
「お前もさ。初めて会ったときは、生まれたての赤ん坊かと思ったもんだ。でも、今じゃもうだいぶ良い。頼りになる保護者も居るようだし、やりたい事もみつかったんだろ。ここに留まる意味は無いんだぜ?」
すやすやと眠る子供達の中を、わたしは無意識に探してしまう。皆がはしゃぎ回る先程の喧騒の中、あの子は今日も読めない絵本を一人静かに眺めていたろうか。
「それとも何か……ここでやりたいことでもあるなら別だが。」
――一度、手を差し伸べておいて?
いつか、一人の男に発した言葉がわたしの中にこだましている。
怪物は待ち続ける。いつか宝の価値を知る者が、恐るべき怪物を倒し、全てを在るべき場所に奪い返す日を。それが訪れることは無い。
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「こらーっ!廊下に立っとれーっ!」
振り向きざまに投擲されたチョークが過たず少年の額――のやや上、頭に乗せたリンゴを射落とす。聖堂に響く感嘆の声と拍手。
「なるほど、これは見事な。」
「でっしょー神父さん!絶対天職だと思うのよねー。」
腕を振り上げ快活に笑う投擲主は「学校の先生になりたい」ミガナー・オーミレド少女。教室の秩序を保つにはまず武力あってこそというのが信条らしい。
「三回に一回はおでこに当たるんだよなぁ。」
またいてぇンだあれが、とぼやきつつ床に落ちたリンゴとチョークを拾うマィニア・ヨショリン少年。付き合いの良いことだ。
この教会の記念すべき最初の来訪者、モナーブルグ商店街自警団一行のお子様に当たる二人は、しばしば親抜きで遊びに来る様になった。正確には、元気有り余りまくり放課後に森深くまでピクニックをしたい少女と、それにしぶしぶ付き合わされる少年といった構図だが。
「実を言うと、わたくしもかつては学校の先生であったのですよ。」
「えっ、神父さんってずっと神父さんなんじゃないの?」
「神父さんになる前にね。お二人が通うものとはまた別の学校なのですが……あまり、うまくはゆきませんでした。チョーク投げの腕前が足りなかったのかも知れません。」
「ねぇねぇ!居眠りする子とか居た?おしゃべりする子は?内緒でお手紙回す子は?」
ジョークを無慈悲に聞き流し、目を輝かせて質問責めする少女と、多少興味深げに横目でそれを眺める少年。苦笑いの神父は穏やかに続ける。
「さいわいのところ、皆さん真面目な方ばかりで。チョークを投げる機会は無かったのですが……わたくしが苦労をしたのは、人に物を教えるということ、それ自体の難しさでした。」
「……神父さんでも、算数難しいの?」
「もちろんです!……それにね、算数を知らない人に算数を教えるには、算数のことをより深く知らなければならないのですよ。わたくしには、それがとても難しかった。」
少女が眉根を寄せて考え込む。勉強よりは、かけっこや投げ合いっこの方が得意なようだ。
「たくさんの勉強が必要です。例えば……そうですね、あなた方の先生は、どんな方ですか?」
「んーっと……あんまり、算数詳しそうじゃないよ?授業の時はご本読み上げるばっかしだし。」
「オレは嫌いだね。いつもガミガミうるせーし。」
「マィニアが居眠りばっかするからでしょ!優しい時もあるんだよ?課外授業の時、具合悪くなった子をおんぶしたり……それにね!いじめっ子にはすっごく厳しいの!わたし、ミィちゃんが靴隠されて泣いてるの見つけて……」
神父はニコニコと、ミガナーの先生自慢がひと段落するのを待つ。
「それとぉ……でも、やっぱりあんまり算数は詳しそうじゃないなぁ。先生の説明何度聞いても、どうして分数がひっくり返るのか分かんないし……」
「とても、素敵な先生なのですね。貴女が"わたしも先生になりたい"と思うほどに。」
少女は少しはにかんで、小さくうなづく。
「先生が何を教え、どう振る舞ったか。それが、時に生徒の行く末……将来をも左右する。わたくしには、その責任はいささか重すぎました。でも、貴女にはさいわい、実に良いお手本がある。」
チョーク投げの腕前はもう十分でしょうから、と冗談めかしたあと、歌う様に続ける。
「何をされて、どんな言葉を掛けられて、貴女が嬉しいと感じたか。どんな振る舞いを正しいと思ったのか。貴女自身の気持ち……想いを、どうか大切になさってください。それこそが、貴女の将来、どんな先生になるべきかということの、他の何より大事なお勉強です。」
もちろん算数もね、と笑い合う。その様を見るともなしに横目を向ける少年は、どこか羨ましそうでもある。
「……マィニアさんは、なにか、将来の夢は」
「ねーよそんなん。どうせオヤジの店継ぐだけだし。」
遮る様に吐き捨てる。
「埃かぶった骨董品屋。居眠りしながら店番してさ、オヤジみてーにぐうたら暮らすんだ。羨ましいだろ。」
「アンティークショップ【破鍋】ですね。立派なお仕事です。」
神父は帽子を脱ぎ、中から二枚のコインを取り出した。手品にミガナーの拍手が沸くも、マィニア少年の表情が動くことは無い。
「……"ツィーシールのメダル"。」
「ご存知ですか、流石【破鍋】の御子息。孤児、罪人の子を千人育て、子供と林檎の木の守護聖人として知られる聖ツィーシールが描かれたメダルです。貴方には、この二枚の違いが分かりますか?」
少年は手に取り、ためつすがめつ眺めだす。横から顔を近づけるミガナーは、ひとしきり目を細めた後潔く諦めた様子だ。
「……鋳造年が違う。重さも同じだし、鋳造の質も似たり寄ったり。後は、別に……」
「実を言うと、貴方が右手に持っている方、贋作なんです。ニセモノなんですよ。」
えぇーっ全然わかんなーいと少女の声が響く中、少年はつとめて平静を装う。
「側面を見て下さい。円周に沿った二本の溝。これは、貴方が左手に持っている方のメダルが鋳造された年、それ以降のものにのみ見られる特徴なんです。右手のものは、骨董的価値の高い、古い鋳造年を偽装されたのですね。」
「わかりっこねーよそんなの。オレ、プロでも何でもねーし。」
「貴方のお父さんは、一目でこの真贋を見抜いたのですよ。百枚を超えるメダルの山から、この贋作の数枚のみを。」
少年の表情が微かに動いた。
「偽物に価値がないとは言いません。しかし、真実を正しく見抜く眼が無ければ、悪意ある偽物によって本来在るべき価値が損なわれてしまいます。価値の守り手。社会になくてはならない、それは立派なお仕事です。」
手元のメダルをふてくされたように眺める少年の頬が、微かに上気する。ミガナーが、どこか嬉しそうにその様子を見ている。
「一度、お父様とお仕事の話をされてみるのも良いかもしれませんね。どうも、お仕事の苦労を、ご家庭に持ち込まない方の様ですので。」
穏やかな沈黙を破ったのは、仲良く鳴った二人のお腹の音だった。
「……そうだ、お二人とも。よろしければ、オヤツにコロッケなどいかがでしょうか?」
少女の歓声と、少年の無言の肯定。日はまだ高く、もうしばらくは長居しようと帰宅に問題はなかろう。
「実を言うと、先日農家さんから大量の"ジャガモナー"を頂きまして。今年は豊作だそうですよ。芽が出る前に食べ尽くさねばならなく、ご協力をお願いしたいのです。」
「……ツィー?何でしょう、まさかじゃがいも料理に飽きただなんて言わないでくださいよ。あの手この手でわたくしだってね……っと」
それもあるけどそうではない、と少女が両手に持った本をブンブンと振り回す。
「また大層難しい本を……なるほど?確かに、単語を辞書で引いてもその一節の意味はわからないかも知れません。それはですね……」
わたしはシャガモナーコロッケをジャガモナーポタージュで流し込みつつ、その様子を眺める。目線の高さを揃えて相手の疑問に寄り添い、その先を――未来を示す。いつかの着想が頭をよぎる。
とても真似できそうにはなかった。わたしの意志は否定で出来ている。世界への、運命への、神への否定。しかし……
神父と目が合う。……必要な一手だった。"アタシ"の居場所をこの世界にこじ開ける為に。それ以上に、そうしたいと意志するわたしを自覚していた。とても、真似はできまい。しかし、彼ならこの不安に寄り添い、あるいは未来を示してくれるかも知れない。
「――ねぇ神父、わたしに……子供への、ものの教え方ってヤツ、教えてくれない?」
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