あなたがわたしを忘れても:RE③
錬金術師――世界を俯瞰し、その真の姿を知る者たちの中で、語り継がれるいくつかの警句がある。
――世界を救うのはもうやめた。
《世界》を相手取るべからず。被造物たる分限をわきわまえよ。神に弓引く蛮勇は容易く《見えざる手》を招く。
――世界を救うより大切なこと。
《世界》の本旨は《日常》である。過ぎたる力、過ぎたる異能は禍を招く。みだりに《壁》を超えるべからず。個のきらめきは廻り続ける日常の環には不要なり。
――英雄も怪物も関係ない。自分たちにできることをやり、今日を平和に生きることができれば、皆それで満足なのだから……
《英雄》《怪物》に成るべからず。環に連なれぬ異物に待つは彼の《海》ばかり。日常を寿ぎ横糸を通せ。師弟を成して縦糸を繋げ。十重二十重の《木霊》を放ち忘却に抗す。かくて永遠無限、ここに在れかし。
《神の見えざる手》による排除、忘却による《Dat堕ち》。いずれも錬金術に深い理解を持つ者ほど強い恐怖を覚えるものだ。だから彼らは空気を読む。理想の日常を演じ自らのミームを次代へと申し送る。進んで逸脱しようとするのは、恐れを知らぬ哀れな子供か、我が身を惜しまぬ真の狂人か。
フー・ダシガラットは考える。あの神父は、果たしてどちらであろうかと。
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「今日の"出張説法"には、なかなか手応えがありました。」
「ま、集まりは良くなってるけど。」
大八車を引く神父の顔は晴れやかなものだ。空っぽになった荷台から一応の同意を返してやると、気を良くした様子で車を引く手に力を込める。
「わたくし、商才があるのかも知れません……いけませんね、あまり利益を伸ばしては。あくまでも、教会の運営の為に最小限の。」
わたしは隣で荷台に揺られる少女と顔を見合わせ呆れてみせた。コイツの"説法"が耳目を集めているのは、商品の魅力や価格設定によるものというよりは、単なる物珍しさと本人の大道芸人的素養が大きい。センスのない過剰サービスによって利益はほとんど出ていない。本人が満足なら良い事だが。
「たくさんビラも配れましたのでね、明日から教会も満員御礼ですよ。早く帰ってお迎えの準備をしなければ。」
周囲を流れる木々がぐんぐんと加速する。少女――ツィールトの奴は楽しげにキャッキャとはしゃいでいる。能天気につける薬はない。
中央の教会から、十分な量の金銭が届けられていたのは知っている。この男がそれを固辞し、あくまでも街の住民からの"献金"によって"教会の運営"をする事を選んだ理由にも、なんとなく察しはついていた。
街との、他者との、世界との繋がり。日常の環の中での立ち位置の確保。それは被造物たる登場人物が運命の軛を脱する手段の一つだ。己の意志と行動を、他者との関わりの中で世界へ刻む。造物主の意志ではなく、繋がりと描写がその登場人物の人格を規定し、運命をすら左右する。世界の内に根ざした、外からの理不尽な干渉に抗する力。
加えて、《神》や《世界》を語るような大それたネタを展開するにあたり、《見えざる手》による消失を防ぐ自衛の手段でもある。事前に日常の中で丁寧に繋がりを構築していれば、それだけ無碍な"スルー"はされ辛くなる。確固たる立ち位置を得た登場人物の物語を、世界は無視することができない。
……と、察しをつけてはいるのだが、自ら過酷な道を選んだ覚悟や悲壮さとは無縁の楽しげな様子を見るにつけ、どこまで考えてやっているのかわからなくなってきた。見た限りでの印象は「教会の神父さんとお店やさんを全力で楽しんでいる人」でしか無く、マジで大丈夫かコイツ?
ツィーの歓声。木々を追うばかりであった視界が明るくひらけ、常より早い教会への到着だ。調子に乗った神父の奴は息を乱して咳き込んでいる。わたしは深く考えるのをやめ、ラボへと引っ込む事にした。
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「やりましたよダシガラットさん!ついに街の方が!ついに!」
「随分掛かったなおい。」
"出張説法"を始めて一週間。満員御礼には程遠いが、この立地でわざわざ訪ねて来る住民が出てくるのはまぁ大したものだ。ツィーの奴は来客には慣れないようで、聖堂に顔を出したのは全員が帰った後だった。喜んでいる神父を見て、よくわからないながらも楽しげにしている。
「覚えておられますか!三日目の説法の際、五人目に洗剤を購入して下さったモナーブルグ自警団のオーミレド氏!今回他の自警団の方々も引き連れて!これは思わぬ人脈を手に入れたのでは無いでしょうか?!」
自警の為に、胡乱な教会とその神父を偵察に来たのでは?とは思っても言わない。実際印象は悪くなく、次は家族を連れて来るとの確約も得たのだという。一人には広すぎる聖堂でぽつねんと膝を抱えていた昨日までの様子を思えば、はしゃぎたくなる気持ちもわかるというもの。
「しっかし、よく覚えてるな。何人目に何を買った誰かなんて。」
「当然、覚えておりますとも!ヨショリン氏、テゥゼント氏、クロード氏、それからウェーテルモナー木工所のお子さん二人に」
「わかったわかった。」
よっぽど繋がりに飢えていたらしい。常に携えている分厚い本と同じように、一つ一つの出会いを大切に胸に抱きかかえているのだろう。
***
重い両開きの扉が開くと、"教会の神父さん"はいつも決まって、ステンドグラスから差し込む光で分厚い本を読んでいる。扉の軋みに気づいて顔を上げ、
「これはこれは、ジャガモナー農家のドミナカ氏!二週間ぶりですね、またお会いできて光栄です。」
心底嬉しそうに駆け寄り両手を握る。出迎えられた本人ですらぎょっとするほどの記憶力は、常連に対してはもちろん、街で一言挨拶を交わしただけの相手に対してすら平等だ。
「そんな……オラ、前に自警団の大勢と来たっきりなのに。」
「当然覚えておりますとも!……その後、畑の方はいかがでしょう?以前、あまり芳しくないとのお話をされておりましたので、気になっていたのですが。」
「そったらことまで……!じ、実を言うとよぉ!」
親切、誠実、勉強熱心。誰に対してもこの調子なので、街の住民から様々な悩み事を持ち込まれるようになるまでそう長くはかからなかった。悩みに真摯に耳を傾け、吐き出させる事で満足させることもあれば、ちょっとしたウラ技――錬金術の助けによって問題を解決することもある。
街外れの"とある教会"と"教会の神父さん"は、モナーブルグの日常の環の中で、確かな立ち位置を得ようとしていた。
***
「ダシガラットさん、いい所に。少々お知恵をお借りしたく。"農耕"について、参照元となり得るような物語をご存知ではありませんか?『開拓史』、『ニラ茶』、様々あたってはいるのですがどうも……開墾、土壌改良、そうしたものについて具体的に取り扱っているような」
「その話は後で聞いてやる。おい、今何時だ?」
本棚と格闘していた神父が動きを止める。日はすっかり落ち切り、背表紙をなぞるのにもさぞ骨が折れた事だろう。
「『明日の晩御飯は任せてください!自慢の鳥はむシチューをご馳走して差し上げましょう!』……だったな?」
わたしの後ろからふくれたツィーが恨みがましい視線を向けている。
「あ」
「『あ』、じゃあないんだよ全く。」
みるみるうちに神父の表情が曇っていく。まるでこの世の終わりのような顔だった。
「も、申し訳ありません。」
約束を忘れた自分が心底許せないと言った様子だ。こうなるともう責めるどころの話ではない。ツィーも怒ると言うよりは悲しくなってきてしまったようで、眉尻を八の字に下げている。
「わたくしは、なんと言うことを……」
「……あああもう面倒くせーなぁ!」
腕をまくって厨房へ。怒りに任せて包丁を振るい、燃え盛る炎に鉄鍋を振るうと、そこには山盛りのチャーハンがあった。安い、早い、美味い。これに限る。
「ああ、ありがとうございます、ダシガラットさん……おいしい……」
「埋め合わせはしろよ。鳥はむシチューな。」
ツィーの機嫌も直ったようだ。まったく、この神父ときたら妙なところで抜けている。
温厚、誠実、親切な神父。調子こきで楽天的な錬金術師。生真面目で物覚えは良いが、つまらない失敗をして落ち込みもする。面倒をみることに決めた子供は日に日に明るくなり、師弟とも親子ともつかない関係はお互いを成長させているようだ。繋がりを大切にして懸命に日常を生きる、普通の住民。
それは錬金術を知る者としての理想のふるまい。一登場人物としての在るべき姿。
では、なぜ?
***
がりがりがりがりがりがり。
がりがり。
深夜。虫の音も絶えた静寂に紙面を走る筆記音。書き手の目は血走り、食いしばった口の端からは泡がのぞく。
強張った鉤手は忙しなく脳をかき出すように爪を立て、俯く額は幾度となく机上に打ち付けられ続ける。時折漏れる呟きは呪詛めいており、声の無い絶叫はどこにも届くことは無い。
信仰心。神を信じる心。それを裏切る"神の実在"という実感は、敬虔な信仰者をして、これ程の苦しみを強いるものなのだろうか。
日常を、繋がりを、臆病なまでに愛し、恵まれ、懸命に生きる一登場人物が、それら全てをご破算にしかねない危険を冒してまで成し遂げねばならない"神の存在証明"とはなんなのか。
あの《海》の底での救いは、この男にとって、夜毎一日も欠けることなく繰り広げられるこの地獄と比してなお、報いとなりうるものなのだろうか。
執筆の音はいよいよ呪わしく、それが夜明けまで止むことは無い。
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