あなたがわたしを忘れても:Re⑤(終)
ちぎれた世界の白ははらはらと踊る。あたかも飛び立つ海鳥のように。
「――あなたは、フー……、」
それは紙片。それは頁。文字、記述、記録。そして記憶。
「……ダシガラットさん。」
「あなたに会えてよかった。」
「……改まって、お手紙なんてね。よく届いたもんだわ。最近の郵便局は根性が違う。」
分厚い眼鏡に表情を隠す。怒りと困惑。まるで時計が巻き戻ったかのような既視感。
「……まぁ、話くらいは聞いてやる。」
「もし、あなたの手元にわたくしの原稿などが残っていましたら、残らず焼いて頂きたいのです。」
蜘蛛の巣の張ったステンドグラスから差す光が、惨憺たる廃墟を切り取る。出会った頃のようだった。違うのは、大八車の陰のあの子が居ない事くらいか。
「あれらは……ワラクズのようなものです。なんの価値もない。全て燃やしてください。」
「そうか。」
わたしは生返事を返して歩みを進める。床板が腐っている。かつて自分が開けてやった穴の位置も分からない。逆光に陰った細身の便りない男の、胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「――セキニンヲトレ」
息がかかるほどの距離。怒りで声が、手が震える。
「『わらクズのようなものです』そうだろうよ。あんな紙切れに意味も価値もありゃしない。……アンタの価値は、そんなところにありゃしないだろうが。」
歯を食いしばり、唸るように続ける。
「それを、なんだこの有り様は。必死で作った繋がりを絶って、何もかも台無しにしやがって。」
抑えていた激情が破裂し、胸ぐらを掴む手が男の体を大きく揺さぶる。
「この教会の日常は――わたしとアンタの、あいのこだろうが!」
ふと、神父の手から分厚い本が滑り落ち、
ばしゃり。
おびただしい数の紙片が、彼らの周囲を舞い踊る。あたかも飛び立つカモメのように。
「――ああ、ああ。」
それは紙片。
――P1526追記。教員採用試験に合格。カオモジベルクより帰郷予定との報有り。
「参ったな、これは……」
それは頁。
――土壌改良進捗。団粒化とph調整が焦点。石灰○。草木灰○。木製鍬、軽量と耐久性好評。
「ははは、どこの頁の……注釈だったか。」
文字、記述、記録。
――との再開(席を外した為詳細不明)。妻子はケントニャスへ。※人が変わったような穏やかな性格に。「オレっちぁ〜ったくよぉ」→「わたしは〜ウフフ」次回要注意!
「ははは困ったな……」
そして記憶。
――ガモナー三箱受領。《キレイキレイ溶剤》在庫補充(急ぎで)←了 試作清掃用具コスト×量産不可 師、来る。旧2543P旧2543P旧2543P 《菊二文字》渡す。刃物を持って暴れてはいけませんよ ぽぽたんたんぽぽ開花 シンシア・ドナースターク:元貴族。説法に興味。卸売業経営目標※身体特徴について→②P536来客三人→追記P3623、P3655、P3702 来客六人(新規二)→追記P552、③P24、③P635、③P 【重要】こふき芋飽きられる P1527追記→「見聞を広めたいっつーか…モナーブルグの外見なきゃダメだろ」お父様とは話し合ったか→返答無し。確執?照れ○→追記:カオモジベルクより便り届く以下添付 とりはむシチューとりはむシチューとりはむシチュー
「……壊れてしまった。」
つまり、これは、
「備……忘録?」
「わたしはどうも、忘れてしまうたちでして。」
わたしは想起する。夜毎の地獄を。
「そう昔の話ではないのです。……ゴルテナの時分から。往生しました。まともなフリをするのにね。友人の目は、誤魔化せませんでしたが。」
大穴の開いた泥だらけの本。師とのやりとり。
「……とても、嬉しいことがあったはずなんです。その日を境に、」
脳裏に浮かぶ純白のドレス。幸せそうな花嫁。集まった大勢の人たち。
「どうも、書けなくなりまして。処理能力の閾値を超えたというか。いくら読み返しても、自分の記憶としての定着がままならず、欠落の速度は増してゆくばかりで。」
わたしは、足元に落ちた本――表紙が開かれ、その裏に貼られた真新しいメモの殴り書きに目を向ける。
「……とても、大切なひとがいた気がするのです。」
"朝起きて、あの子のことを思い出せなければ、フー・ダシガラットへ手紙を出す"
「わたしにはもう、名前も、姿形すら、思い出せない。」
本から視線を上げ、彼を見る。逆光のせいだろうか。その表情は窺えない。見知ったはずの顔立ちすら判然としない。
「ダシガラットさん。もし、忘れることが罪であり、罰でもあるとするならば。」
いつかの問答。『僕らは二度死ぬ三度死ぬ』。
「わたしのこの拙い生の、なんと残酷で救われないことか。」
ワロスウッドの森。彼の師の言葉。あやつは止めん。止められない理由がある。
「わたしには、忘れることも、忘れられることも、罪にも罰にもならない世界が、どうしても必要だった。機械仕掛けの誂えられた救済で構わない。ただ、それだけが……わたしはつまり、それだけの男で。」
わたしは理解する。
「そして今、時に追いつかれてしまった。」
この出会いが、わたしのまがいの《意志》では覆せぬ、周到に用意された悲劇でしかなかった事を。
怒りに燃える目が、パチパチと爆ぜる火を睨む。
――でもね、わたしは決して諦めたわけではないんです。
嘆きに濡れた目が、降り出した雨に窄まる。
――わたしが書を残さず、何一つ成し遂げぬままこの世界を去ったとすれば、
赤と青の視線で灰色の空を仰ぐ。天に挑み刺し貫くように。
――わたしはきっとあの《海》に、堕ちることができる。
憎悪と失望。わたしに初めて《意志》をもたらした、それは馴染みの感情だった。神への。この世界に対する。
――《海》での一日の思索の価値は、地上においての一年のそれを超えましょう。わたしは、きっと世界を救ってみせる。
「残念だが、アンタは肝心なことを忘れてる。」
いかに残すべき功績を燃やしたとて、積み上げた日常を毀損したとて。
「あの子が、アンタのことを忘れるはずがない。アンタが《海》へ堕ちることは」
呟いて、唇が凍る。それは彼の救済を意味するだろうか。忘れた先、忘れられた先に、救いを見出すこと無しに。唇が歪む。あざけりに。あるいは恐怖に。
「――わたしに、それをしろっていうのか。」
***
「……奴め。便りをよこしたかと思えば!」
レギコザイン。薄暗い豪邸の一室。司教帽の下、日頃部下や信徒に向ける聖人めいた顔からは及びもつかぬ凶相を浮かべて。
「言うに事欠いて……望みとあらばかなえてやろう。元よりそのつもりよ。」
――わたくしの数少ない著作、論文。そのすべての権利をお譲りします。どうか、わたくしの名前という名前を、この世界へと残さないでいただきたい。
「ついに気が違い果てたか。貴様に受けた屈辱……我が人生の汚点を思えば、貴様の生きた痕跡など塵一つでも残すものか!」
泥水を這い、この地位まで上り詰めた。一学者の命運など意のままだ。片田舎の僻地へ飛ばす事など。
――貴方にしか頼めないことです。
その過程、政治の荒波。派閥闘争。いつだったか。奴の頭脳が、精彩を欠きつつある事に気づいたのは。
――どうか。我が友、モナベントラ。
片田舎の僻地。政治とは無縁の。それが、かつての自分が求めてやまなかった環境そのものであることに、彼は気づいていた。壊れてゆく友の、それでも止まない崩壊にも。
「だが、一つ条件がある。司教のおれに指図をするのだ、拒否権があると思うなよ。」
その頭脳は、しかし次代へと継がれていた。学内の政治の嵐に耐えうるしたたかさ、意志の強さをも備えて。"たまたま"当時のままに残された僻地の教会跡。彼の手元には友の遺稿。
「おれは、貴様の言葉の続きをどうしても知りたいだけなのだ。」
***
「――フーさん!どこですか、フーさん!」
溶け崩れていく世界の中を、声を張り上げて駆け続ける。頭部には司祭の帽子。モナーブルグにおいて、「とある教会の神父さん」として知られる人物だ。
「一体何処へ……フーさん!返事をしてください!」
――貴女はもう、彼女には会えないのよ。
不吉な女性の声を頭から振り払う。神父には状況がわかっていた。《メカジエン》の発動。フー・ダシガラットの敗北。彼女が世界征服を企んだこの時間軸が、世界から「なかったこと」として切り離されようとしている。
真意を問いただす必要があった。それ以上に、彼女の名前を呼び、探し続けることに意味があった。世界が終わる瞬間まで。たとえ世界があなたを忘れても、わたしはあなたのことを忘れはしない。それを示し続けることに。
そうすれば、己だけは彼女の居場所を作ることができる。自分が「教会の神父さんになりたい」と決意したその理由を強く意識する。名前を呼ぶ。呼び続ける。いじっぱりな露悪家、大好きなフーねえちゃん。彼女との日々。決して切り離せない、己のルーツ。
「――だからね、」
背後に声を聞いた気がした。耳慣れたはずの人物の、初めて耳にするような弱々しい声だった。
「アンタに忘れてもらわなきゃ、この話の落とし所がつかないのさ。」
暗転。
暗闇の中で意識を取り戻す。悪い夢の中にいるかのように、体が動かない。
次に、自分の体が何かに座らされている状態で拘束されていることに、視界をなにかに塞がれていることに気づく。金属。機械。モーターの唸り。――その向こうから、震えるような物語の力を感じ、彼女は状況を理解する。
「これは――」
「目、さめちゃったのね。」
声は思いがけず近くから届いた。
「準備に手間取ったわ。何度やっても慣れないものね。」
「……フーさん、なにをする気ですか?」
物語の波長には覚えがあった。《忘身刑具》。『僕らは二度死ぬ三度死ぬ』という、強靭な物語の力を用いた、脳内記憶情報の入出力装置。意図を察する。全身の血液の突沸を感じる。歯を食いしばり、震える声を絞り出す。
「――フーさん。わたしね、ずっとあなたに言いたいことがあったんですよ。」
気配がなんらかの操作を始める。全力を込めて拘束に抗う。無為と知りつつ。
「ことさらに、"出し殻"を名乗って、露悪にふけって、この世界のどこにも居場所がないかのように振る舞う、あなたに、言いたかったんですよ。ずぅっと、言いたかった。それでもいいじゃないかって。」
言葉が溢れ出す。
「まがいものの、にせものだって、いいじゃないですか。出し殻だって、いいじゃないですか。あなたがどこの誰の人生を剽窃した"悪魔"だったって、構いやしない。」
堰き止められ続けた想いが、濁流となる。
「あの日あの時、わたしを前へと進ませた一言が、どこかの誰かのセリフの引用であったとして、わたしに向けられ続けた優しさの全てが、他の誰かのそれの拙いコピーであったとして!一体それに、なんの問題がある……!」
好きにしろ。あなたがそう言ってくれたから、わたしは生きていられる。上手にあの人を、"神父さん"を演じていられる。空っぽだったわたしが。――モーターの唸りが振動に変わる。さらに声を張り上げる。喉も裂けんとばかりに。
「……ずっと、ずっと伝えたかった!わたしがあの人を……"わたし"になることを選んだ理由。古い物語。『十字架の背に悪魔は潜む』。わたしは、」
抗い叫び身をよじる。駆動音をかき消し、己の中に湧き上がる諦念を殺し、この愚者の試みを思いとどまらせるために。
「あなたの潜む、十字架に――」
「わたしのことなんか忘れて、」
小さな呟き。優しい祈り。
「幸せになってね」
***
「――では冒頭の、神と悪魔の賭け、ファウストと悪魔の契約の内容について振り返ってみましょう。」
本を棚に戻して、男は続ける。
「焦点は、悪魔がファウストを堕落せしめるかどうか。ファウストが"瞬間"に満足する事で、その向上の歩みを自ら止めてしまうかどうかということです。」
「奴は最期、満足したろう。『時よ止まれ、汝は美しい』。契約の言葉だ。」
「では、彼が満足を覚えた『時』とは、いかなるものでしたでしょう。"憂鬱"によって盲目になったファウストは、悪魔の手下が彼の墓穴を掘る音を、自らの領民による『永遠の建設の槌音』と誤認する。」
「マヌケなやつ。ますます救えない。」
「それでも彼は建設――創造と前進の瞬間をこそ尊んだのです。命を落とすその瞬間まで。」
しばしの沈黙。やけに静かだと思えば、ツィーの奴が寝ている。
「悪魔は、本当の意味でファウストを立ち止まらせることはできなかった。神との賭けに、負けたんです。」
「……どんなに好意的に解釈したところで、気に喰わないもんは気に喰わない。」
「感想ですからね。わたくしの解釈も一つの読み方に過ぎない。」
「アンタは、救われるべきだって言うのか。」
男は質問の意図を察する。
「散々好き勝手やって、自分のケツもろくに拭けない。他人に地獄をおっかぶせて、手前勝手に満足して死んでいく。そんな連中を。」
「……そうですね、少なくとも……」
彼は、その時何を考えていたろう。自分に課せられたどうしようも無い運命を、恨まなかった筈はない。それでも。
「……ファウストが救われる為にはね。彼の行いによって不幸に落とされ、そしてその後に救われた、少女の祈りが必要だったのですよ。」
穏やかに笑いながら。
「わたくしたちは、救われねばなりません。」
きっと、心の底から。
「彼らみんなを、救う為にも。」
***