90歳、死ぬ瞬間まで「全身ジャーナリスト」であると誓う
4月15日、90歳の誕生日を迎えた。
その前後数日間には、
日頃お世話になっている方が、
お祝いの会を開いてくださった。
大変うれしく、
感謝するばかりの、
「誕生日ウィーク」だった。
戦争中、「国のために戦って死ぬ」と
誓っていた軍国少年が生き延び、
11歳で終戦を迎え、
その後ジャーナリストとなった。
一般的には「余生」の世代なのだろうが、
僕はどうしても一丁上がりとは言えない。
時代の変化は途切れることがない。
ジャーナリストとして、
死の瞬間まで時代を
見つめていくべきだと思っている。
誕生日に合わせて、
一冊の本を出した。
タイトルは『全身ジャーナリスト』(集英社)。
これまでも、自伝的な本や、
対談本は出してきた。
しかしこの本は、これまでの自伝的な本と、
ひと味もふた味も違うと思っている。
それは、私が受けて来た批判を、
真っ向から受け止め、
当時の「田原総一朗」を考え、
真摯に振り返っているからである。
たとえば評論家の佐高信氏は私について、
「権力に擦り寄る」と猛烈に批判した。
それに対して、毎日新聞の岩見隆夫氏は、
「佐高の気持ちはわからんでもないが、
田原総一朗というのは、
佐高のああいう批判で済むような人物ではない。
戦後が生んだモンスターのような
ジャーナリストだから」
と言ったという。
私はその話を聞き、
「へえ」と思った。
たしかに当時の私は、
「朝まで生テレビ!」、
「サンデープロジェクト」(共にテレビ朝日系)
という2つの番組によって、
永田町への影響力を強めていた。
岩見氏の言葉には「一国の政治を動かしている」
という私の「驕り」に対する
牽制の意味もあったのではないか。
岩見氏は亡くなってしまったので、
確認のしようがないのだが。
佐高氏は僕への批判の手を緩めず、
その後、批判本まで出した。
その佐高氏が「サンプロ」に
出演することになった時、
さすがに僕は難色を示した。
マネージメントをしてくれている、
娘の眞理が当時の僕について語る。
「あの時、パパは傲慢だったよ。
佐高さんが『サンプロ』に出ると言ったら、
自分は出ないと言ったり。
何をあんなに勘違いしていたのかしらね」
ひたすら、恥ずかしい。
たしかにあの頃の僕は、
目に余る感じがあったと思う。
また、「朝生」の司会をしてくれていた、
ジャーナリストの長野智子さんは、
僕が「人の話をさえぎるのが嫌だった」と言う。
打ち合わせでも、
その日のテーマをスタッフに振って、
まともな答えが返ってこないと激しく怒った。
長野さんは打ち合わせが嫌でたまらず、
胃が痛くなったという。
……申し訳なく思う。
ただ、僕にはこの緊張感が必要だった。
長野さんは僕の手法の犠牲になったとしか
言いようがない。
しかし、長野さんはこうも言ってくれた。
「次第にわかってきたのは(中略)
正直な自分、借り物ではない自分を出してくれ、
というのが田原さんの言いたいことだった」。
救われた思いである。
僕を率直に批判してくれる、
仲間や家族がいてくれることには、
感謝しかない。
そして、岩見氏の言う「モンスター」の称号を、
僕は今率直に受けたい。
著書『全身ジャーナリスト』では、
僕が「モンスター」なら、
果たしてどんな「モンスター」だったのか。
僕という人物の実像なのか、
テレビが生んだ虚像なのか、
真摯に振り返っている。
90歳、田原総一朗。
この本によって、
僕は僕の人生をさらに豊かに
生き直そうと思っている。
一読いただけたら幸いです。