8月に改めて誓う、「日本を戦争をする国にしてはならない」

また、8月がやってきた。
79年前の8月6日、
「広島にすごい爆弾が落とされた」
とラジオで知った。
3日後、続いて長崎でも落とされた。
直後に「原子爆弾」というものだと知り、
当時小学生だった僕は、
「もう日本はだめだ、
終わりだ」と思ったのを覚えている。

今年8月9日、
長崎の平和祈念式典に、
長崎市はイスラエルを招かなかった。
それに抗議するかたちで、
アメリカ、イギリス、
フランスなど6カ国の駐日大使が、
式典を欠席した。
イスラエルを招待しなかったのは、
日本としてではなく、
長崎市の判断なのだが、
大変残念なことである。

長崎市長は、
この判断について、
「政治的理由ではなく、
不測の事態発生のリスクなどを
総合的に勘案した」という。
しかし、「不測の事態」は、
どの国が出席しても起こり得る。
僕にはこの理由が、
きわめてあいまいに思える。
政治において、
特に国際関係においては、
「あいまい」が一番よくない。

平和祈念式典は、
言うまでもなく、
原爆犠牲者への慰霊であり、
惨劇を繰り返さないための式典だ。
パレスチナへの攻撃を続けている、
イスラエルの大使だからこそ招待し、
戦争の悲惨さを伝えるという形は
考えられなかったろうか。
「長崎を世界最後の被爆地に」
という決意を見せられなかったろうか。

「二度と惨劇を繰り返さない」
何度でも訴えることが、
戦争を体験している者、
ジャーナリストとしての務めだと思っている。
先日、元朝日新聞の下村満子さんと、
youtubeの番組で対談をした。
*下村さんとの対談はこちら
 https://youtu.be/uRvX7WvVVLY

下村さんも、
あの戦争を知っている世代。
7歳の時、満州で終戦を迎えている。
下村さんの体験は、
外地であるだけに壮絶なものだった。

暮らしていた社宅から、
父親を含む男たちがロシア人に連行され、
女性と子供だけになった。
「凌辱されるよりは」と、
医師だった下村さんの母が、
青酸カリを調合して住民に配ったという。
その後、中国国民党と共産党の内戦が起き、
弾丸が飛び交い、
山のように積まれた死体を見る日々が続く。

やっと乗り込んだ引き揚げ船では、
船底で人々がびっしりと、
まるで「冷凍マグロ」のように寝た。
栄養失調で亡くなった方の遺体が、
次々と海へ投げ捨てられる……。
本当なら楽しい子供時代に、
下村さんは、なぜこんなにも
悲惨な体験をしなければならなかったか。
もちろん戦争があったからだが、
さらに大きな要因がある。

戦争に負けた時点で、
満州の関東軍が
自国民を守ろうとせず、
逃げてしまったためだ。
下村さんは言う。
「関東軍が真っ先に逃げたのは許せない。
今も本質は変わらないと思っている。
戦争というのは、
命令をした人は死なない。
死ぬのは末端の人」

下村さんの言葉は重い。
ウクライナ、ロシア、
パレスチナ、イスラエル……
まさに、死んでいるのは、
「末端の人」である。
「命令する側」の政治家たちよ、
満州で壮絶な体験をした
ジャーナリストの言葉を
心して聞いてほしい。
僕も下村さんと話して、
改めて誓った。
「日本を戦争をする国にしてはならない」