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空想の家は、空想のままに

飽きもせず、間取りを毎日考えている

私は間取りを考えるのが好きだ。用もないのに不動産サイトを見ては、この壁は取っ払い、東側にも窓が欲しいなどと思いに耽る。
初めてアパートに一人で暮らした時からずっと、今の住まいに満足できず、ここがこうなれば、あそこがああなればと考えてきた。こんなにずっと考えているのに、実現したことがない。なぜなら、お金がないからだ。

助けた富豪の老人が土地をくれる?

結婚し、子どもができてからはいっそう、あんな家にこんな間取りにと思うようになった。散歩をしていて頃合いの空き地などを見つけると、ああこの土地があればなどとボーッと考える。
さらに妄想は広がり、いまここに老女が倒れており「大丈夫ですか?」とその人を助ける。するとその老女が、「あなたは死んだ娘にそっくりだわ。あなたが見ていたこの土地は私のもの。でも、おいさき短かい私にとって、必要のないものです。これも何かの縁。あなたに差し上げるわ」「えっ、そんな!」ということで、この土地を取得。その場合、この広さなら思い切って平屋という手もある。というようなことを思いながら、そこに5分ほど佇んでしまう。
そんなことを私は何十年も、しかもいろんな場所で繰り返しているのだ。千葉県富津の海岸沿いにある空き地の前や、銀座の空きビルの前でも考えた。

「季節のない街」のホームレスの親子の空想の家

「季節のない街」という山本周五郎さんの小説がある。古くは黒澤明監督が「どですかでん」という映画にし、最近は宮藤官九郎さんが脚本を書きドラマになった。私は、映画は見ていないが、小説も読んだし、ドラマも見た。この中に、「プールのある家」というホームレスの親子の話がある。
40歳くらいの父親と7歳くらいの男の子。二人は本当の親子ではないかもしれない。子どもはお父さんと呼ばないし、父親は子どものことを名前ではなく「きみ」と呼ぶ。
みすぼらしい小屋に住み、二人はずっと自分たちの建てる家の話をする。主に、インテリだったと思われる物知りの父親が話す。子どもは「そうだね、うん、ほんとだ」と相槌を打つ。空想の家は、何度も建てたり改築されたりし、豪壮な邸宅となっていく。二人は毎日毎日、生きるために語り合う。静かに、具体的に。しかしこの空想は、完成してはいけない空想なのだ。
私の妄想住宅も、きっと完成しない。きっとその方がいい。
最近は、「町屋が余ってるから住んだらええ。リフォーム代も出したげる」と京都の富豪が言ってくれないかなー。そしたら京都に帰るのになーなどと、性懲りも無く考える。その場合も、必ず間取りや設備のことまで考える。古い家は断熱材をしっかり入れて二重窓にしないと、とか。

親子揃って富豪老人頼みか

そういえば、父が生きていたとき、まだ小さかった子どもと三人で高級住宅街を散歩していたら、「おい、この辺のじいさんが、かわいいお孫さんですね。家が余ってるからあげますわ。て言うてくれへんかな」と私に言うではないか。それも、わりと真剣に。
血は争えないとはよく言ったもので、そこは私がいつも倒れている老人はいないかとキョロキョロしながら歩いている道であった。
まったく、親子揃ってアホである。いいですか、そんな富豪老人はいません。

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