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ごめん、ごめんね後悔してることがたくさんあるよ❷「秋田のホテルで」

2002年、20歳の私は東京から母の秋田の実家に出戻り、日々を持て余していた。

ある事情で神奈川にあった家が無くなることになり、母は中高生だった弟2人と私を連れて秋田へ越したのだった。

父はその時アメリカに単身赴任中で居なかった。

私は東京に戻り、友達の家に居候させてもらうことになっていたがすぐに仲違いしてしまった為、秋田に出戻る以外になす術がなかった。

私はすぐにでも父のいるNYへ行こうと目論んだ。しかし母が首を縦にふらなかった。
大学を中退し、東京でフラフラしていた私にこれ以上失敗させたくない、と母が言っていたと弟から聞いた。

歌手を目指していた私は、にっちもさっちもいかない現状に焦っていた。とにかくバイトをしよう。お金を貯めてアメリカへ行って歌の勉強をするんだ。

何かでコンパニオンのバイトの募集を見つけ面接に行くと、その場で採用となった。そして今夜すぐに仕事に入ってほしい、と言われたので了承した。
髪を後ろでまとめて、シニヨンネットに入れ、白の少し光沢のあるシャツと黒のロングスカートにパンプス。誰?と自分につっこみを入れたくなったが、私は初めての現場、ホテルの宴会場へ足を踏み入れた。

瓶ビールの蓋をひたすら開け続け運び続けた後、お料理をとる時の大きなスプーンとフォークみたいなやつの使い方などを先輩コンパニオンに教わった。

1日にふたつホテル会場をはしごする日もあった。立ったまま、お酒を注いだり、お料理を取り分けたり、お皿を下げたり、お話ししたり、する仕事を私は割とそつなくこなしていた。それらは学校の先生たちの懇親会や建設会社の忘年会だったりした。

秋田で1番大きなホテル内にあったコンパニオンの事務所にある日出勤すると、そこを取り仕切る女の社長さんに呼ばれた。「今このホテルのブライダルサロンで、新卒じゃない子を入れようという話があって頼まれてて…やってみない?」とのことだった。留学がしたくてバイトをしているはずの私はその話を引き受けた。契約社員だったが母がうれしそうだったのと、私もなんだかいろいろと期待に応えたかった。

自分の心がうやむやになった瞬間。

そうして、私は窮屈そうなジャケットにピタッとした膝丈スカート、ストッキングにヒールの靴でブライダルサロンに勤め始めた。秋田の雪の残る、まだ寒い時期だった。

4人いた先輩たちは皆優しくて、美人なのにユーモアのある魅力的な人ばかりだった。私は必死に仕事を覚えようと奮闘した。そしてあっさりと新しい職場に馴染んでいった。

先輩の後をついてホテル中の従業員の方々に挨拶をして回ったり、結納の品を覚えたり、ブライダルフェアではただただ1日中会場入り口に立って笑顔で挨拶したり、した。それなりに充実している気がした。

ブライダル部門は男性の社員も多く、中には厳しい上司もいて心が折れそうなるほど怒られたこともあった。

そんなある日東京からマナー講師の女の人が招かれ、ブライダルサロンの女性スタッフのみんなで研修を受けることになった。そのあたりから私は、たぶん、あれ?私何をやっているんだろう?という感じがし始めたが、気づかないふりをしていた。

手の指を全部きれいに揃えて、肘から上に掲げて、こちらです、と道を指し示す正しいやり方の練習を延々としたりした。講師の先生は穏やかでとても頭が良さそうだった。そして1番下っ端の私には特に優しく指導してくれた。

勉強のために家にブライダルの資料を山ほど持ち帰って、ノートにまとめたりもしていた。

そんな日々が続いていたある夜中、突然嘔吐と下痢が止まらなくなった。こんな大惨事は経験がなかった。寝ている母に助けを求めた。朝になり病院へ行くと、急性胃腸炎とのことだった。血圧が後にも先にも見た事がないくらい低かった。それでも午後から出勤しようとする私を病院の先生は本当に呆れた目で見た。

しばらく仕事をお休みする旨など母に電話してもらったのだろうか、よく覚えていない。

私はそのまま仕事を、辞めた。
全ての関係者に後ろめたい気持ちだった。

後日、母が菓子折りを持ってブライダルサロンに挨拶に行ってくれた。皆心配していたよ、と聞いた。きっと本当にそう思って言ってくれているのだろうなと思った。あの優しかった先輩たちのことだから。

私は一見やれそうなのに、社会人としては全然適応できないんだ、と1番思い知ったのはしかし母だったのかもしれない。

この一件で、あ、この子無理なんだ…と諦めがついたところがあったと思う。

その数ヶ月後、私は髪をベリーショートに切って、父のいるアメリカへ渡った。
事情を聞いていたであろう父は私に「車は160キロ出せるけどな、出し続けたら壊れる。ほどほどが良いんだよ」 と言った。

私は、もう2度と自分らしくないことができないように、Tatooを入れようと思った。取り返しのつかない事をしようと思った。ちゃんと。

そして22歳になっていた私は誰にも言わず、
ひとりでNYのTatooショップへ出向き、右肩の後ろに太陽のような花のTatooを彫れたのだった。

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