『白詰草』(短編小説) #同じテーマで小説を書こう
思いを寄せている人がいた。
下校時、廊下の窓ごしにサッカーをしている彼の横顔を見るのが私の日課だった。真剣な眼差しでグラウンドを走り回るその姿を目で追いながら「今日も頑張ってるね」と心で呟く。
まるで校庭の傍らにひっそり咲く白詰草の花のように。彼と同じ世界にいながらも自分を消していつもつつましく私は存在していた。自分に自信のない私は遠くから表舞台を見つめるだけ。彼は決して届かない存在。彼と話すのはおろか、視界に入るのも怖かった。
そう、あの頃の私は。
*
どしゃ降りの夕立に降りこめられたあの日、神様は私に小さないたずらをした。
帰りの下駄箱。いつも鞄にしのばせている折り畳み傘がないことに気づく。雨脚が弱まるまで待つしかない。下駄箱の前で立ちすくんでいる私を尻目に、同級生たちがぞくぞくとやってきては傘を開いて下校していく。
大量の雨粒が降り注ぐグラウンドは、風に吹かれて海のように波打っていた。ああ、こんな雨じゃ、彼もボールを蹴れないなあなんて思いながら途方にくれていると、背後に湿気を帯びたやわらかな風を感じた。
「あっ」
振り返ると、彼がいた。
いる。目の前にあの彼がいる。心は真っ赤に、頭は真っ白になった。耐えきれず、視線をそらし、何事もなかったかのような表情を取り繕って校舎の外に顔を向けた。
「2組の・・・山井さんだったっけ? 」
少女漫画みたいな展開なんて、私には似合わないはずなのに。背中ごしに初めて聞いた彼の声は、私の勝手な想像とは違って低く穏やかだった。
「・・・うん」
「ひょっとして傘忘れた? 」
気が動転していた私は、それ以上声を発することもできず、静かにこくりとうなずくので精一杯だった。
「確か、帰り道同じ方向だったよね。傘入れてあげよっか」
「・・・」
全身が心臓になったかのように鼓動が高鳴っていた。漫画みたいだと思っていた展開は、間違いなく現実なのだ。私は声を振り絞った。
「あの・・・部活はお休み? 」
「うん、この雨じゃ仕方ない」
「残念だね。岡見くん、いつも頑張ってるもんね・・・」
しまった。何を言ってるんだ、私は。これじゃまるで私がいつも彼を見ているって宣言してるのと同じじゃないか。胸の高鳴りが彼まで聞こえているんじゃないかと心配になった。
「ありがと。・・・じゃあ、ほら、傘入っていいよ」
「あ、ありがとう」
うっすらと柄の入ったビニール傘をさして彼は私を待っていた。少したじろぎつつも、私じゃないみたいな私が、彼の傘に飛び込んでいった。肩を並べると、彼は背が高かった。私の首はまっすぐ固定されていて、とてもじゃないけれど至近距離の彼の横顔なんて見れなかった。
「山井さんって、俺と同じ小学校だったよね」
「うん」
「でも同じクラスになったことないよね」
「うん」
「中学では何か部活に入ってないの」
「うん」
並んで歩くだけでいっぱいいっぱい。「うん」と言うばかりで何もろくに話せない自分が憎らしかった。そんな調子でしばらく歩いていると、会話はあっという間に途切れてしまった。
雨の壁がつくり出した二人だけの動く個室。傘から肩に垂れる雨の滴でさえ、美しい世界をかたどる舞台装置に思えた。何か話さなきゃ。そう焦るほどに言葉が出てこない。人知れず咲いている白詰草に彼自ら近づいてきてくれたのに。
「あのさ・・・いつも見守ってくれてありがとね。おかげで、いつも力をもらってるよ」
「・・・」
傘の中で降ってきた思いがけぬ言葉。まさか、すべて見透かされている? 嬉しさより驚きと恥ずかしさの方が大きくて、ますます私の口は動かなくなった。今ここで彼と肩を並べて歩いているのは誰なんだ。本当に私なのか。水を踏む靴の感触とたまに触れる肩の感触しか感じないくらい、私はカチンコチンだった。
「俺ね、来週、引越すんだ」
「えっ」
「父親の実家の北海道に行くんだ」
「えっえっ・・・」
彼の口から出た予想もしなかった一言に、体の芯のあたりに雷が落ちたかのような衝撃を感じた。続けざまに発せられる一言一言に、心が追いつけなかった。
いなくなる。私の視界からいなくなる。いつも遠くにいた彼が、もっと遠くなる。嘘だ。そんなの・・・嫌だ。何か言わなきゃ。言わなきゃ。自分の思いばっかりで、ただ焦るだけで、気の利いた言葉なんて一向に何も出てこなかった。
「俺、向こうでもサッカーは続けようと思ってるんだ」
「・・・応援してるよ」
私の内側からようやく出てきたのは、誰でも咄嗟に思いつくような軽いありきたりの言葉だった。そうじゃない。そんな言葉じゃないんだ。
彼の足が止まる。
「じゃあ、俺こっちだから。山井さんはそっちの道だったよね」
「うん」
「はい、ビニール傘あげる」
「えっ。岡見くん濡れちゃうじゃん・・・」
「大丈夫」
「・・・」
「じゃあ、バイバイッ」
声を出せない私は慣れない笑顔をつくって手をふった。どんどん小さくなっていく彼の背中。ぐっと近づいた反動でもっと遠のいたような、そんな気がした。見えなくなるまで私はずっとその場に立っていた。
一人になった帰り道。透明のビニール傘ごしに空を見上げると、その暗く濁った色は私の心そのものだった。ビニールの傘地にプリントされた半透明のブロッコリーの緑色でさえ色を失いかけていた。なんて私は無力なんだ。ひとすじの涙が頬をつたった。
*
あの日、神様は私に何をしたかったのだろう。彼がいなくなってからもずっと、気がつけば考えている自分がいた。そのたび、ずきずきと胸のあたりが痛かった。目がうるんだ。
いつもの窓に、見慣れた後ろ姿はもうない。部員たちのサッカーボールを蹴る音が時折聞こえるが、その音は私の心にむなしく響く。
*
時は流れ、卒業の季節になった。彼は北海道で大好きなサッカーをやっているだろうか。もう私には確かめる術すらない。
廊下から見える窓越しのグラウンド。紅白戦をするサッカー部の面々。立つ砂埃。高く響くホイッスルの音。そして、3階の窓から見つめる私。すべてが過去になろうとしている。
ある日、ふと思った。神様の答えを探すのは、もうやめよう。
不完全で曖昧で答えがない。いつ思い出しても胸が締め付けれる。そういう過去も大切に抱えて生きていこう。それもいずれきっと、弱い私を強くしてくれるはずだ、と歯を食いしばった。
そう思えた瞬間、白詰草の花が心から散る音がした。
(了)
今回、杉本しほさんの企画に参加させていただきました。
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