空のあいうえお
寒いですね。さっき、夜の澄んだ空気の中を散歩しました。5年前にやっていた早朝のアルバイトに向かうときの匂いがしました。
あのときの僕はなにを考えて、どういう生活を送っていたんだろ。
なにも考えられなくて、どういった生活も送れていない人がいたとしても、できるだけその気持ちに寄り添えるようになりたい、なんてことをぼんや〜り思いながら、図書館の地下室で色んなことを書いていた気がする。
あのときの僕みたいな、甘い空気を頬張っている人に出会ったら、それとなくお話をしてみたい。ちょっと下心のあるハグもしてみたい。かも。僕はたぶん、自分のことが好きすぎるんだな。押し入れの中にしまったものをことあるごとにひっぱり出してくるわりに、いま自分が抱えているものを、とつぜん大雨の窓の外へ投げ捨てたりするもんなあ。もちろんたとえばなしなんだけど。。。
今となってはもう見えなくなった景色を、ありありと見ることのできる唯一の手段は、自分の中に深く潜って、とっておきのタイムマシンに乗り込むことなのよね。だから僕は自分の中に沈澱しているものを大切にしたいし、それをたまに揺すったり、その濁りに太陽の光を透かしてみたりしたい。そして、生活の中で出会ったかけがえのない人たちのそれも、一緒になって手探りしてみたい。まったく格好つけずに言えるよ。
でも、僕がたいせつにしたいものと、あなたがたいせつにしているものは、何かが決定的に食いちがっているかもしれない。ひとそれぞれ、そのときどきの思いが溢れて抱きしめあうとき、一瞬よりもいくらか長くつづくうつくしいものにさわることができるんじゃないかな。
あわてることはないけれど、いつまでものんびりしているのはなんだか心もとない。すごい速さで明けてゆく夜と、どっと押しよせてくる輝きに、目を細めたり目を見開いたりして、でも健やかな疑いのまなざしを忘れずに暮らしていこうよ。
こころは圧縮も解凍もできない。ここに、あいまいなままであやふやに存在している。存在している、なんて言えないのかも。いいんだよ、そこらへんの誤差みたいなことばづかいは見逃してほしい。そんなのは問題じゃない。ぼんやりとしたまま、大量の誤解のなかでかろうじてそれらしいものを掴みながら暮らしていく、僕らはいつまでもそんなもんじゃないかなあ。そしてそれは僕らの良いところなんだと、今はそう感じているよ。