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僕がASEAN人材ハンターになった経緯 (Feb.25, 2020)
初めまして、ASEAN人材ハンターこと、田上 竜也(たがみ たつや)です。よくわからないと思いますので、今までの生い立ちをここに書いていきたいと思います。何らか興味を持っていただけましたら、反応いただけると非常に喜びます〜!
ASEAN人材ハンターって何ぞや?
ASEAN出身(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)の日本語ペラッペラな人材に特化した人材紹介会社を2014年の創業以来、僕は一貫して求職者と向き合って来まして、今では累計10,000名のASEAN日本語人材データベース(ASEAN CAREER)を構築しました。日本最大級です。
今はクライアントさんの要望する人材が市場感にマッチしていれば大体の人材をハンティングできるレベルに至りました。
また外国籍人材紹介エージェントでの成約数もトップクラスになり、留学生が利用しているエージェントサービスでもリクナビ・マイナビに次ぐ3番目の地位を確立いたしました。まあこのような一見華々しく見えるように書けるようになりましたが、今でも実態は泥臭く、SNSや友人ネットワークを活用してのハンティング業務がメインとなっております。
ASEAN CAREER https://nodejpn.com/aseancareer/
クソマジメだけど、不器用、コンプレックス、他者との比較で嫉妬しまくっていた学生時代
僕はマジメで不器用。コンプレックスにまみれた学生生活を送ってきた。
中学時代は学級委員に選ばれ、試験の結果も学年トップクラスだった。でも高校入試で必要な成績表の内申点は低く、主要5教科は基本オール「5」だった。しかし、体育・美術・音楽などの実技教科については教師に気に入られず、一番肝心な時期に「3」をつけられた。その結果第一志望の高校には行けず、結果的に滑り止めの都立高校に入学。
大学こそは一番行きたいところに行くぞと思い、高校1年に決めた第一志望は「東京外国語大学の英語専攻」。配点が圧倒的に高い、英語を早期から重点的に勉強。でも、センター試験で英語を大失敗。落ちに落ちて、明治大学へと入学した。周囲のチャラチャラしてた連中が、急に受験モードに切り替わり、予備校に通い始めて、ひょいと早慶に入学するのを横目で見てると虚しさを感じざるを得なかった。
明治大学では成績も英語もトップクラス。友達は留学生。自分は誰もが羨む会社に入社し、世界を相手に戦う日本人なんだと思っていた。また自分より正直能力値低いと思っていた、先輩が大手の外資系企業に入社したりもしていたので、ちゃんと準備してれば就職活動は楽勝だと思っていた。
ところが、2008年リーマンショックが起こり、外資系企業は採用の門戸を閉ざす。能力値が低い先輩が入社した会社も、エントリーシート段階で次々と切られ、外資系企業への道は閉ざされていった。
唯一行きたかった、日本の会社は「任天堂」である。
大学時代はいくつかアルバイトをしたが、接客とか販売系のアルバイトは1カ月も続かなかった。一方で、塾講師は4年間ずっと継続した。何かきっかけを与えて、子どもたちの目が変わる瞬間に、教育の面白さを味わった。ただ、僕は世界を変える人間と思っていたので、教育業界の就職は一切考えず、当時ニンテンドーDSで教育と自分の大好きなゲームを融合したコンテンツが流行っていたことで、親が教育目的で子供にゲームを買い与えるムーブメントを作りたい。そのソフト開発に関わりたいと思っていた。
でも任天堂は京都に2回も足を運んだ挙句、最終面接落ち。周囲の友達が次々と進路を決め遊びムードになる中、人生に絶望し、お先真っ暗状態で、必死に逃げ道を探していた。
ASEANから生きる希望をもらった!嫉妬せず、争わず、好きに生きる!
とにかくレールを外れたかった自分は、なぜかタイ行きのチケットを予約していた。よくわからん国に行って、夜遊びして、飲んだくれて、もうどうにもなれと。どうせ1週間しかいないんだから悪いことあっても我慢すればいいと。(今ではタイは日本人にとって身近な外国ですが、当時、外国と言えば欧米・オーストラリアでした)
結果、帰路のチケットを捨てて、タイに1ヶ月以上いることになろうとは...
日本にはない街の熱気、工事中の建物、日に日に進化していく街並み、人々の優しさ、料理の美味さ、女の子のオープンな感じ、物価の安さ、周囲を気にしないで好きに生きている人々。ついでに周辺ASEAN諸国を旅行してもそんな感じだった。
なんだこれ、楽園じゃん!
周囲との比較でコンプレックスに悩んで、お先真っ暗状態な自分がちっぽけに思えてきた。また当時現地の日本人ゲストハウスに住んでいて交流するチャンスもあり、そこで目標と思える働き方を見つけた。
そう「駐在員」である。日本の給与以上の待遇でこの国で生活できればこの上なく最高。
帰国してから、タイで駐在員できそうな会社を受けたら、たまたま1社目の金属系商社に採用が決まった。今考えると志望理由が、「タイに駐在したいから」でよく採用してもらったものだ。
円高、輸出不振、未来のない商材、僕の仕事は中国からの借金取り、「石の上にも3年」将来性のない泥舟に突っ込む。
TOEICで900点を持っていたという理由だけで、僕は海外の顧客100%の輸出部隊に配属された。2年目から中国の大型クライアントを担当することになった。利益で年間1億円の超大型クライアントだ。
しかし、当時政権は民主党。1ドル=80円の超円高へ。日本のモノがとにかく高い。付加価値の低い商材はどんどんローカルサプライヤーに切り替えていく。僕が扱っていたのは、日本製のアルミとか銅など何の変哲もない金属。当然ながら受注は激減。
日本のサプライヤーからは受注減を詰められ、客先からは度重なる値下げ交渉、とうとう支払い遅延。月1回の中国への借金取り出張の始まりだ。とりあえず支払い計画書にサインをしてもらって帰ってきて報告する。どうせその計画書通りに支払うことはないのに。茶番劇である。
僕「あの、タイへの新規事業案を、、、」部長「お前、今の状況わかってるか? 」(ですよねー)
ある時、そのクライアントと会食があった。周囲にはどこから来たであろう、複数のお姉さんが強めなお酒を勧めてくる。翌朝僕はホテルのロビーに寝ていた。何があったか覚えていない、ただ、わかったのは、カバンから仕入値が記載された価格表がなくなっていることだ。
完全に終わった、始末書、いや、クビかな。
ただ、奇跡的に受注は増えたのである。利益率が想定より低く、それを守るのは当然のことだとむしろクライアントから同情を買う結果となった。そこからウソで塗り固めるのはよくないし、誠実に商売をすることが重要であることを心に刻んだ。
タイ駐在員計画始動、離職、6カ月の空白期間から見えたもの
今の会社じゃタイ駐在はできない。毎月の受注減と、借金の取り立てで無駄な日々を送るハメになる。そこで僕は転職活動を開始した。
しかし、当時タイの駐在員ポストは非常に限られていた。大きく分けると工場の管理責任者または会計士である。
工場の管理責任者は少なくても10年は日本で勤め上げる必要あるのでやめた。若い頃の駐在がきっと財産になると思っていた。そこで、会計士にターゲットを絞った。ただ、日本の公認会計士を目指した友人が何回もダブってるのを知っていた。だから日本の会計士は目指さず、得意な英語を生かしUSCPA(米国公認会計士)を目指すことに。要領よくやれば1年で合格できる。
USCPAの学校に申し込み、土日は学校に通って授業受けたり、平日も空き時間を利用してひたすら勉強の日々。一通り授業を受け、テキストを一巡が完了し、合格までの道のりは見えた。あと6カ月完全なる空白をもらえれば合格できそうだったので、親や周囲を説得し、退職へ。
カンボジア人との3年越しの再会、日ASEAN若者文化交流の日本支部設立へ
退職した翌日、なぜか自分はスイス行きの便に搭乗していた。
父親が自営で計測器の商社をやっており、仕入れ先はスイスだった。将来会社を引き継いでもらいたいという裏裏の期待もあっての出張だった。とりあえず1週間お試しの社員として働いた。毎朝5時に起きて、カッサカサのパンとブラックコーヒーでエネルギーを補充し、レース場に行き8時間のタイム測定を行い、業務後は深夜までウェーイと飲み明かす、スイスのくせに体育会系の環境だった。ただ、休むときは1カ月ガツンと休めるのはいいと思う。またスイスで働ければ(物価も高いが)この年でも年収1,000万円は堅い。
ただ、全くテンションが上がらなかった。理由は、計測機自体が斜陽な伸び代の無い分野であることと、スイスも日本も成熟しきっていて、タイで味わった、「伸び代しかない」という感覚は味わえず。実はタイ航空をあえて使っており、帰路はタイで1週間の滞在ができエネルギー補充完了。その後フィジーで1カ月語学留学という名の遊びを満喫し、日本に戻ってきた。
会計の勉強に戻ろうと意気込んだ瞬間、当時MBAの大学院説明会で知り合った、カンボジア人から連絡が入る。
「ASEANの若者の10万人以上のオンラインコミュニティの代表をしており、世界中にASEANを知ってもらう活動をしている。せっかく今日本にいるんだし、日本の若者にASEANを知ってもらいたい。日本支部を一緒に作り、キミが代表をやらないか?」
身近で希望に溢れた国を知り、実際に行ってみることで、僕と同じ境遇の日本人の若者が救われればいいなとちょうど思ってたところなので快諾。
とはいえ、現在ニートの僕がタイとかベトナムとか、ASEAN素晴らしいよと言っても何も説得力がないので、当時日本に勉強している留学生に協力してもらい日本人と交流してもらうことで、ASEANの良さを伝える活動を推進してきた。最終的には、参画するメンバーが増え、NPOの法人格入手、国際交流基金などから助成金を得たり、企業から多額のスポンサーを得るレベルまで成長。会計の勉強そっちのけで、ASEAN普及活動にのめり込んだ。
とはいえ、無収入。日に日に減る貯金。ハローワークと失業保険をめぐる攻防。現実を見ないと。
NPO化することで、膨大なネットワークは構築、団体の知名度もかなり向上し、オンラインファンページは10,000人以上に成長したが、代表理事はニート同然。人材会社への協力でたまに数十万円くらいスポンサーをもらうが、そもそも全額事業投資に充てていたため無収入である。日に日に目減りする残高、失業保険も自己都合のため受給は3カ月でストップ、簿記2級のハローワーク講座を受講すればさらに3カ月受給期間は伸びるが、すでに簿記2級を持っていたため、抽選漏れ。職務経歴書の空白は半年を過ぎようとしていた。
2013年は日本とASEANの40周年の年、日本でも様々な交流事業が行われ、僕もたくさん主催・協力した。とある外務省のイベントの運営を手伝っていて、そのレセプションパーティーの時に、現在の創業のパートナーである会社と繋がりを持った。
ASEAN留学生の就職環境をITのチカラで一気に変えていかないか?ASEAN版リクナビを一緒に作らないか?
NPO法人は様々な文化交流を通じて、在日ASEAN留学生のネットワークやデータベースが構築されていき、留学生の集客力はかなり高い団体となっていった。そこで様々な人材会社から、自社で主催する企業合同説明会の集客の依頼が舞い込み、そこそこの金額で受託していた。
当時から留学生から就職の悩みは聞いていたし、就職先がないと日本にいたくてもいられない実情も知っていた、それよりも日本人よりも遥かに優秀な人材が就職できないのはもったいないとも感じていて。少しでもこのイベントがきっかけとなり、ハッピーになれる留学生が増えればと思い、必死に集客をした。
実際、僕は当日そのイベントでショックを受けた。当日参加した企業の一部が不機嫌になり、その人材会社の営業も「すみません、人材がダメで」と平謝り。もうブチ切れそうになった、いや切れていたかもしれない。
業界をリードすべき人材会社が、その対応じゃこの日本の留学生就職環境は変わらない。希望者の3割しか就職できないという実態は変えられない。実はその人材会社から、僕をそこそこの金額で採用したいという話もあったが、一連の企業に媚びへつらう対応を見て嫌気が差し、結局断った。
そのような話を、現在の代表の渡邉(元リクルート)と話していた。当時渡邉はITの会社を辻澤(エンジニア)と2名で原宿のアパートの一室で運営していた。ある日渡邉から、お洒落なバーに誘われ...
「辻澤がASEAN人材のリクナビを作るから、一緒に会社を創業し、ASEAN留学生の就職環境を変えられるプラットフォームを作らないか」
え!起業すんのか!?自分!?
今しかないっすよ、やるの?やらないの? (プレッシャー)
元リク(リクルート)という人種は、いまだに一部苦手な部分があるが、そのプレッシャーがなければ26歳で起業はしなかったであろう。
NPOを一緒にやっていたカンボジア人とも相談して、4人が役員となり会社を作ることに決めた。それが現在のNODE株式会社。そしてASEANのリクナビはご存知現在のASEAN CAREERである。
なんだかんだで6年、長老としての今後のミッション。
とはいえ、全員人材紹介未経験からの出発。(渡邉のキャリアはリクナビの媒体営業) 要領が分からず、契約書を見よう見真似で作成、電話帳から片っ端に営業電話。試行錯誤・挑戦・出会いと別れの毎日だったが、何もかも僕にとっては新鮮でとても楽しかった。何回も経営危機があったものの、いまこうして6年目を迎えて、ASEAN人材ハンターと名乗れ、業界からも一目おかれる存在になったこと。こうしてnoteを書いていること、思い返せば、奇跡じゃないかと思えている。
創業時、2014年はASEAN留学生は4,000人程度。この小さすぎる市場は見向きもされないのも当然だ。完全に若気の至り。
ところが現在はASEAN留学生数は100,000人以上となっている。そこで多くのプレイヤーがこの領域に参入しているが、6年以上、企業と外国籍人材の最前線で戦ってきた自分は、この業界で十分に食べていける自信はあります。またパイオニアとして、この業界の未来を共に作っていく仲間を十分に食べていけるようにする義務があると思います。
外国籍エージェントは天職か? 次の展望は?
ここまでお読みいただきありがとうございます。
僕にとってこの仕事は天職かと思ってます。別にエージェントが好き、人助けが好きって訳でもないですが、毎日楽しんでます。だいたい下記のような理由です。
・プロとして誤魔化さずに正直に商売ができる
・大いに成長可能性を秘めている
・自分がやらないと日本がダメになるという使命感がある
最近思ったこととして、「得意なことから始めてみることで、結果的にその仕事が評価され、必要とされ、好きに繋がること」って結構あるかと思います。やりたいことが分からなく、日々悶々としている人は、得意なことからキャリアを切り拓くというアプローチが良いかもしれません。
しばらくはASEAN人材ハンターとして、多くの日本の会社の海外事業発展のために役立っていきたいと考えており、外国籍人材紹介においては業界No.1を目指し、かつ、業界全体をリードしていける存在へとなります!
そして、さらに長期的なお話ですが、日本人若者のキャリア教育や投資などにも関わっていこうと考えてます!
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
2020年2月27日 田上 竜也
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