孤独について
先日当面最後になるであろう一般向けの講演で話してきた。そこにいた在日の子が質問をしてきて、それは僕も5年位前までに考えていたことだったのでちょっと書いておきたい。
彼の質問はこうだった。
僕は地方の朝鮮高校出身です。大学からは慶応にきて、そこで勉強して今は起業しています。高校時代の友人たちは今も大切にしているのですが、一方でどうしても話が合わなくなっていることについて苦しさを感じています。慎さんはそういったことを感じたことがあったのでしょうか。どうやってそれと向き合っているのでしょうか。
これは、別に朝鮮高校出身者じゃなくても、少しベクトルを変えるとよく生じる問題だと思っている。例えば地方のあまり勉強をしない学校出身で比較的難関大学に入った子たちもよく直面する問題なのじゃないかと思っている。
その人のバックグラウンドが何であれ、周りの人達が「普通に」進む道から外れるような生き方をしていると、どこかのタイミングでその人は孤独になる。具体的には、自分を理解してくれていると感じられる人が減っていく。
例えば、だけど、イチローのような人が「分かり合える」と感じる野球選手ってそんなに多くないんだろう。宮本武蔵だってすごく少なかったはずだ。ジョブズだってそうだったに違いないと思っている。
何かを突き詰めて、思いつめながら生きていると、そうしていない人たちとは話が合わなくなる。それはしょうがないことで、例えばマイナス40度の世界でエベレストに登頂しようとしている人と、平地の坂道を歩いている人の話が噛み合わないのと同じことだ。見ている世界が違うんだからしょうがない。
決してそういう孤独な世界に生きている人が偉いといっているわけではない。その人達は好きで「人里離れた山」を登っているわけであって、その人達を高く評価するのはある評価軸を当てた場合にそうなる、ということに過ぎない。すごいスポーツ選手になる人生を選ぶことと、全力で子どもを育てることを比較してどちらが偉い、というのはおかしな話だ。
とはいえ、生きているうちに「人里離れた山」を登ろうと決めた人は、どこかのタイミングで孤独を受け入れる必要がある。昔からの知り合いに、今の自分を完全に分かってもらいたいという願望は捨てないといけない。別に深刻な話をしているわけではなくて、嫌ならいつでも自分が生まれ育った場所に戻ってくることができるんだから、冒険しているうちは、孤独を悲しむより眼の前に広がっている風景を楽しんだほうがいいんじゃないかな。