長編小説 夏の香りに少女は狂う その27
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめてあります。
***
明美は「しばらく市内の自宅で過ごすんちゃうか」と言っていたが、義之は翌日の夕方に戻ってきた。
心なしか、顔色が悪い。
「ヨシくん、なんか疲れてるんちゃうん?顔色、悪いで」
リンが、義之の顔を見上げる。
「お義姉さん、赤ちゃん生まれたんやろ?戻ってきて大丈夫なんか?」
明美は台所で、夕食の支度をしていた。
この日のメニューは、カレーらしい。
大きな鍋が、コンロの上で湯気を立てている。
「うん…生まれた、は生まれたんやけどな」
歯切れ悪く答えて、義之はうつむいた。
「何かあったん?」
リンは、義之の顔をのぞきこんだ。
端正な顔に、苦悶の色が浮かんでいる。
「うん、まぁ」
義之は短く答え、立ち上がった。
そして冷蔵庫から、缶ビールを取り出す。
「明美、今日は晩飯いらんから。ちょっと考え事したいから、一人にさせて」
両手に缶ビールを抱え、義之は自室へと消えた。
「お兄ちゃん、どないしたんやろ。…まぁええか。リン、晩ご飯にしよ」
明美は、湯気の立ったカレーの皿をテーブルに置いた。
***
夜になっても、義之が部屋から出てくる気配はなかった。
「お兄ちゃん、どないしたんやろな」
2階にある自室で、濡れた髪を拭きながら、明美がぽつりと言った。
「うん…。でも、ただごとじゃなさそうやな」
戻ってきた義之の様子は、これまでとはまるきり違っていた。
明らかに、顔色が悪かった。
いつも優しげな目元が、厳しいものになっていた。
リンも、見たことのない義之の姿に戸惑っている。
「お兄ちゃんのあんな姿、初めて見たわ。気になるけど、一人にして、て言うてたし」
髪を拭き終わったのか、明美はタオルを脇に置いた。
「そやな…」
奥さんと何かあったんやろか、とリンは考える。
「とりあえず…明日の朝、何があったんか聞いてみよか」
明美はそう言って、肩をすくめた。
***
夜中。
リンは義之のことが気になって、眠れずにいた。
明美は、ベッドで寝息を立てている。
すでに熟睡しているようだ。
リンは、明美の部屋を出た。
階段を下り、1階の奥を目指す。
そして義之の部屋の前に立ち、扉をノックする。
カチャリ。
すぐに、扉は開いた。
「リンちゃん、か…」
扉からのぞく義之の顔を見て、リンは驚いた。
一瞬、幽霊かと思ったくらい…
その表情は暗かったのだ。
「心配して、見にきてくれたんやな。…ま、入って」
義之は、リンを部屋に招き入れた。
そして、ローテーブルの前に腰を下ろす。
リンも、義之の隣に座った。
ローテーブルの上には、ビールの空き缶が数本、転がっていた。
ビールだけでは足りなかったのか、ウイスキーの瓶と飲みかけのグラスも置かれている。
「ヨシくん、だいぶ飲んだん?」
生気の感じられない目を、リンはのぞきこんだ。
「まぁな…。どんだけ飲んでも、酔えへんねん」
義之は、飲みかけのグラスに手を伸ばす。
「何かあったん?」
その頬に触れようとして、リンはあわてて手を引っ込めた。
以前のように、気軽に触れてはならない人なのだ、と思ったからだ。
「うん…色々、あった。そやな、リンちゃんには言うとこか」
義之は辛そうな笑顔を浮かべ、ウイスキーをあおる。
リンは、あいまいにうなずいた。
しばしためらってから、義之は絞り出すような声で言った。
「あのな…結論から言うたら…子供、俺の子とちゃうかってん」
「えええっ!?」
リンの目が、大きく見開かれる。
まさか。そんなことが。
どうして…
あまりのことに、頭が混乱した。
義之は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「嫁さん、妊娠中にDNA鑑定したらしいねん。…今は、妊娠中でも子供のDNA鑑定ができるらしいねんな」
そこまで言ってタバコを1本取り出し、火を点ける。
「あ、ごめん。吸っていい?」
「うん」
リンがうなずくと、義之は深々と煙を吐き出した。
気を落ち着かせようとするように。
「俺、前に言うたやん?嫁さんと、ほとんどヤってなかった、て」
数日前、義之と二人で真夜中の海岸に行ったことを、リンは思い出す。
『仕事が忙しくて、子供ができるようなことは、ほとんどしていなかった』
確かに、義之はそう言っていた。
だが。
生まれた子供の父親が、義之ではないとすると。
「嫁さんな、ほかに付き合ってる男が、おったらしいねん。生まれた子は、そいつの子供や」
自嘲するように言って、義之は煙を吸い込む。
「それ、確実なん?ほんまに、ヨシくんの子供じゃないん?」
DNA鑑定がどのようなものか、リンはよくわかっていない。
「うん、間違いない。相手の男も検査したらしいねんけど、99.9パーセント、そいつの子供なんやて」
義之は、大きく煙を吐いた。
リンはどう言えばいいのかわからず、ただ義之の顔を見上げる。
「嫁さんも、その事実がわかってから…いつ俺に言おう、て悩んでたみたいなんやけどな。俺にすれば、やっと生まれた時にそれか、て感じやわ」
「ヨシくん…」
「まぁ俺も仕事ばっかりで、嫁さんのこと、ほったらかしやったからな。まぁ自業自得、やな」
タバコを消し、義之は空になったグラスにウイスキーを注ぐ。
そして、それを一気にあおった。
「それで、子供はどうなるん」
リンは、そのことが気になった。
父親が違うとなっても、戸籍上は義之の子、ということになるのだろうか。
「とりあえず、弁護士に間に入ってもらうことになるやろうな。ちょっと調べてみたんやけど…子供が生まれて1年以内やったら、『俺の子じゃない』て裁判所に訴えることができるみたいやから」
まるで他人事のように、義之は答える。
「ヨシくんは?これからどうするん?」
リンはたまらなくなって、義之のTシャツの裾をつかんだ。
「さぁな。まぁ、子供のことについては、いろいろ手続きとかせなアカンやろうけど。しばらくは、こっちにおるわ」
ひと通り話して落ち着いたのか、その声は穏やかなものになっている。
「最終的に、離婚することになるやろな」
Tシャツの裾をつかんだまま、リンはうつむいた。
「まぁでも、俺も嫁さんも、お互い様やな」
「ヨシくん…」
リンは、義之の顔を見た。
涼やかな目元には、いつもの優しい光が宿っている。
「俺も、嫁さんがいながら、リンちゃんにハマってしもた」
大きな手が、きゃしゃな体を抱き寄せる。
「私も…ヨシくんが…好き…」
あの夜、言えなかった想いを。
リンは、ようやく告げることができた。
「そうやな…わかってた。俺も、同じや」
義之は、リンの体を力強く抱きしめる。
ふわり。
アルコールの匂いに混じって、甘く優しい香りが立ちのぼった。
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