短編小説 夏の香りに少女は狂う その4
このシリーズは、こちらのマガジンにまとめてあります。
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やがて太陽が水平線の彼方に沈み、あたりは夜になった。
「あー、食べた。もうお腹いっぱい」
明美がブルーシートに寝転がった。
デニムのショートパンツから、健康的な素足が伸びる。
「何やねん、行儀悪いな」
義之が、苦笑しながらたしなめる。
事実、バーベキューは盛り上がった。
3人ともよく食べ、酒好きの義之は次々に缶ビールを空けていた。
久しぶりの義之との再会に緊張気味だったリンも、少しずつ気持ちがほぐれてきたようだった。
学校の事、明美とのことなど、楽しそうに談笑している。
「そういやリンちゃん、そろそろ彼氏とかおるんちゃうん」
5本目の缶ビールを開けながら、義之がいたずらっぽく笑った。
「ううん、おれへん。彼氏とか、まだしばらくはいいかな、と思って」
リンは、苦笑いをしながら答える。
「彼氏の1人や2人くらいは、いてると思ってた。だってリンちゃん、めっちゃベッピンさんになってるやん」
「えっ、そんなん言われても…」
とくん、と心臓が高鳴った。
思いがけずほめられて、ほぐれかけていた心が再び緊張する。
「な、もったいないやろ。この子、言い寄ってくる男子全員、ソッコーで『ごめんなさい』やで」
「ちょ、明美、いらんこと言いなや」
リンが、寝転がっている明美の肩を小突く。
「へぇ、リンちゃんやっぱりモテるんや。まぁ納得やけどな」
義之のからかうような口調に、リンの白い頬が一気に染まった。
「リン、私ちょっとトイレ行ってくるわ。すぐ戻るし、待っといて」
明美が立ち上がる。
海岸から少し歩いたところに、公衆トイレがあったはずだ。
リンは、義之と二人きりになった。
何か話しかけないといけない…
そう思いつつ、どう話しかければいいのか、わからない。
義之もまた、ちびちびビールを飲みながら、無言で海を見ていた。
リンはその横顔を、ちらりと見る。
『ヨシくんって、こんなカッコよかったっけ』
涼し気な切れ長の目に、細く繊細な鼻筋。
唇はやや薄めながら、口角が上がっているので冷たいイメージはない。
全体的には、「男前」というより「美男子」という感じだ。
「ん?りんちゃん、どした?」
知らず知らずのうちに、リンは義之の横顔を凝視していたらしい。
「えっ…あ…なんも、ない」
ふいに声をかけられ、戸惑う。
「なんか、ヨシくん、カッコよくなったなと思って…」
言い訳のようにつぶやきながら、リンはうつむいた。
「なんで。俺のほうがビックリしたわ。ランドセル背負ってたリンちゃんが、こんなキレイな子になってたやなんて」
義之はいつの間にか、リンのすぐ隣に腰を下ろしていた。
「俺の中で、リンちゃんはいつまでも小学生やったねん。そやのに、久しぶりに顔見たらコレやから…」
照れ隠しのように、義之は缶ビールをあおった。
「ヨシくん…」
あまりの気恥ずかしさに、リンはうつむいた。
義之の顔を、まともに見ることができない。
「俺、ヤバイなって思ったんやで。子供の頃から知ってるし、明美の友達やし…」
「えっ?何が…」
真意を問おうとしたリンの唇を、義之の唇がふさいだ。
そして、無意識に逃げようとするリンの肩を、力強く抱き寄せる。
ふわり、と不思議な香りが漂った。
どこか懐かしい、祖母の家でかいだ線香の香りのような…
でももっと上品で、甘い香り。
それが義之の体から漂ってくるものだ、とわかった瞬間。
唇が離れた。
リンにとっては、あまりにもあっけない…
初めてのキスだった。
リンは、混乱していた。
確かに、カッコいいと思った。
ドキドキした。
でも義之は大人で、結婚もしていて…
「ヨシ、くん…」
なんで?と聞きたかったが、飲み込んだ。
胸の動悸が、おさまらない。
「リンちゃんが、あんまりにもかわいいから」
困った顔で微笑むと、義之はリン人差し指でリンの頬をつつく。
その表情は、「お兄ちゃん」ではなく「大人の男」のものだった。
「そやかて…」
戸惑っているところに、
「ただいまー」
と、明美がトイレから戻ってきた。
義之は、一瞬で「お兄ちゃんの顔」に戻った。
リンも、ほっとしたように肩を落とす。
「そろそろ帰ろか」
何本目かのビールを飲み干した義之が、言った。
「そやな。ぼちぼち片付けよか」
明美も同意して、使用後の紙皿やプラカップをゴミ袋にまとめ始める。
リンも空き缶を集め、ゴミ袋に詰めた。
まだ顔が火照っているような気がして、二人に背中を向けていた。