収める
扉の小窓を覗くと、丁度彼は「キチント」に没頭しているところであった。
「キチント」というのは、彼の毎日の整理整頓作業のことだ。研究室の隅から隅までを、毎朝9時からきっかり1時間かけて整える。
毎日の事だから整える部分など殆どないのに、誰がなんと言おうと、同じ工程で、同じ場所を、同じやり方で整える。机の端から10cmのところに並べた3本の鉛筆の長さ、ブラインドの角度、飛び出たティッシュの向き——。
それは、もはや彼の性癖とでも言うしかなかった。「キチンと収まっていると、気持ちがよいのです」これが彼の口癖だ。そのため他の教授も生徒も皆、彼の変態行為を嘲けて「キチント」と呼んでいるのである。
「どうも、水谷先生。今日もキチンとしていますな」
ええ、と答える彼の口調は完全に上の空で、何を言ってもこの2文字が返ってくるのだろうという気がした。
「明日の講義なんですが、ちょいと妻の急用で。代講してくださいませんかね」
「ええ」
頼み事は相手と場が肝心。しめたものだ。
足取り軽く扉へ踵を返しつつ、早速あの娘の肌に脳を蕩かす。
それでは、とドアノブに手をかけた時
「吉田先生、これ、貰っていただけますか」
振り向くと机の上に三角形の白い容器が置かれていた。水谷はこちらを見ることもなく、これ、と指差している。
「はあ、なんですかこれは」
はんぺんのように、なんの特徴もない。
上蓋のつまみをとって開けてみたが、カラである。
「奥様が白磁をお好きだと、以前に仰ってらしたので。私にはもう要らないから、あげます」
確かに妻は白磁が好きだ。しかし西洋のティーポットだとかソーサーだとか、そういう類のものであって、こんなのっぺりとしたはんぺんが好きなわけではない。
「あ、いや、妻にだなんてそんなあ、お気遣い結構ですよ、先生」
笑って返したが、
「あげます」
この変態め。
面倒臭くなったのと代講を頼んだ引け目から、ボソリと礼を言ってはんぺんを手にそそくさと出てきてしまった。
それにしても、なんだ。見れば見るほど、あの几帳面教授そのものみたいに見えて来る。ピンとした角が三つ。無個性なのか、個性的なのか。
この容器の角に彼が分度器を当てている様子がありありと目に浮かぶ。
まったく気色が悪い。
一体何を入れていたのだろうか。
この三角形には何が入るだろうか。
嫌悪と好奇心が同時に浮かんできて、落ち着かない。
目の端にさっきからチラつく物がある。
研究室の学生からお土産でもらったお菓子。
くそ、なんでよりにもよって隣にあるのだ。
整理整頓とは程遠く、書類の散らばった上に置かれた、「生八つ橋」——。
窓の小窓を覗くと、丁度彼は「キチント」に没頭しているところであった。
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