ほどける
遺品整理で骨董の引き取りを頼まれた。
故人は美術教師をしていたとのことで、書斎の本棚には美術と歴史に関する分厚い専門書がぎっしりと詰まっていた。
骨董の方も中々の名品揃い。依頼主である奥様は懐かしさと哀しさの入り混じった表情で「よく分からないものばかり集めて…」と呟いていたが、しっかりと見定めて選んでいたことが伺える。蓄積した知識を物体に変換することが彼の愉しみだったのかもしれない。
押入れに仕舞われている大小の桐箱。その山の中に、贈答用のメロンの箱を見つけた。何だろうかと引っ張り出してみると、中から現れたのは柿のモチーフが描かれた花瓶であった。他の物と比較するとお世辞にも深みなどというものは感じられない。軽く指で叩いてみても剽軽な音がして、明らかにオモチャである。しかしながら、ピュリズム的な柿の絵柄にどこか愛らしさをおぼえ、他のものたちと一緒に引き取ってきた。
ところで、私は引き取りの際に故人の手帳をいただいてくる場合がある。半分は「たどる」の手掛かりとして、また半分は妄想趣味の素材として用いている。パーソナルなものということもあり、たいていは断られるのだが、今回伺ったお宅は有難いことに快く渡してくださった。
それから2週間ほどが経ったある日。いただいてきた手帳をパラパラめくっていると、中からはらりとメモ用紙が落ちた。そこに書かれていたのは、あの花瓶にそっくりな柿の絵と10/4という日付だった。あらためて項をめくってみる。するとその日の日記欄にはこんなことが書いてあった。
10月4日(日)
孫が描いた柿の絵に、
すっかり見惚れてしまった。
花瓶か何かにしたらステキなことだろう。
この一文を見つけたとき、私は、骨董をたどるという作業の中核に触れたような気がしてハッとした。胸がしばらくのあいだ高鳴っていた。この花瓶は引き取ってくるべきではなかったかもしれない。そう思い依頼の際のファックス紙を引っ張り出してきて固定電話の番号に電話をかけた。しかし、何度かかけてみても繋がらなかった。後日思い切って再訪を試みたところ、既にアパートは引き払われており、引っ越してしまわれたようだった。結局その後も手掛かりは得られず、花瓶は今も私の手元にある。
何かの縁でここに来たからには、たどることを通じて紐解いた過去を大切にしつつ、昇華してあげたい。だから私なりの方法のひとつとして、こうしてゆるい伝記のようなものをしたためてみている。
さて、この柿の花瓶にはどんな植物を合わせようか。どこにどう置いたら素敵だろうか。
新緑の梢が目に鮮やかになってきた今から、はやくも秋が待ち遠しい。
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