堕落論あるいは地獄における苦悩
ここは地獄だ、と彼は深く息をついた。
実際、ここは地獄であり、しかも、地獄を統べる王城のその玉座に彼は座る。そう、彼はこの永遠の暗黒の地を治める王であった。
地上の人間たちを誘惑し、願いを叶える代償として魂を要求する悪魔たちは皆彼の支配する使い魔である。
彼の使い魔たちは王の命に従い、せっせっと人間を誘惑し契約を交わし、そして得た魂を片っ端から地獄の黒い炎の中に投げ入れる。
黒い炎の中でおろかな魂たちが上げる悲鳴は、彼の心を蕩かす歌声。
そんな彼を悩ます問題は、ここのところ堕落させた人間の魂の数が多過ぎるということである。
まったくここ最近の人間ときたら、目的を達する為なら手段を問わないようで、なんでも気軽に魔法陣を描いては、使い魔を呼び出してくれる。
それはそれで喜ぶべき事態なのであるが、肝心な点は、過ぎたるは及ばざるが如しということなのである。
例えば、Aという人間が己の成功を願えば、Bという人間がAの失敗を望むといった有様で、悪魔とすれば、契約したからにはどちらの願いも叶えてやらねばならないのだ。
それが天地開闢以来続く契約の力というものだ。
けれども、全ての人間の願いを叶えてやることは不可能なのだ。そう、一人の人間の成功とはすなわち他人の失敗を土台に成り立つものなのだからである。
だから、両立不可能な願いを同時に受理してしまった場合、ものを言うのはそれぞれの使い魔たちの、または使い魔たちの上司の実力である。おかげで、地獄の実力者の間では、丁丁発止の駆け引きが行われ、緊張は高まり、地獄には不穏な空気が流れる。
いや真に憂うべきことは、地獄にやって来た人間どもの魂だ。この地上から来た異分子は、彼らの流儀を使い魔たちにおせっかいにも吹き込んでくれる。
特にやっかいなのはお高く留まったインテリどもで、お陰で地獄の炎を燃やすウコバクたちはすっかりと搾取される労働者気取りだ。
連中は権利意識に目覚め、賃上げを要求して只今ストライキ中である。
まったく、そのうち革命でも起こしかねない。
人間どもは神を否定しただけでは飽き足らず、悪魔も否定し様としているようだと彼は思った。
かつては国の姫でもかっさらい、王に無理難題を吹っかけるといった遊戯もそれなりに楽しめたものだが、今ではたとえ最高権力者をさらったとしても、その国はなにも変わらない。なにしろ、万人は皆平等なのだから。こうして、彼の行為はまったくの一人相撲に終わる。
地獄は地獄的だ。しかし、地上は、人間界は地獄以上に地獄的だ。
こうしている間にも、使い魔たちは、人間界の悪徳をせっせと地獄に送り込んでくる。そして、ウコバクどもは賃金だけではなく、労働時間の短縮をも要求してくるだろう。それにしても「悪魔にも安息日を」だなんて、まったくタチの悪い冗談にしか聞こえない。しかし、冗談では済まなくなるだろうと思うと、ますます彼の憂鬱は深まる。
「おお、神よ」
思わず彼は呟いたが、もちろん返事は無かった。
なにしろ、とっくの昔に人間は神を殺してしまっていたのだから。