キュウリを、いっしょに
太陽の自己主張は激しく、日本はすでに熱帯に属しているそうな。僕は木陰に腰を降ろし、担いできた保冷バッグを置く。
目の前の池に大きな影、そして波紋が浮かぶ。そこからアイツが顔を出し、いつもと同じ調子で
「よう」
と言ってくる。
「おう」
と僕も返す。
バリポリクチャシャク
ポキバリムシャシャグ
僕が持ってきたキュウリをアイツは遠慮無く食う。水掻きのついた手で器用につかみ、クチバシへ持って行く。
「まったくさあ。フナの痴話喧嘩の面倒なんて見てられないって。こっちは色恋なんて未経験なのによお。で、あいつら、竜神様に直訴して配置換えしてもらうって言いやがる」
カチカチ、クチバシを鳴らしながら咀嚼する。
うんうん、僕は頷く。
「そうかあ、大変だなあ。僕も恋愛なんて分からないや」
これが中間管理職の悲哀ってやつなんだろうな、きっと。
「で、お前の方はどんな感じよ」
「相変わらずだよ」
「ってことは、プールに潜って荷物を移動させたり戻したり繰り返してるわけ?」
大山さんは気の強い女性で、いつも時計片手に僕の仕事に注文を付ける。岩場に隠されたボールを探して籠に入れてという単純作業にもそろそろ飽きてきたよ。
「生産性がねえな、お前の仕事って」
カツカツ、クチバシを鳴らして笑う。
こうやって互いに愚痴をこぼしあえるのも異業種、ならぬ異種族だからだろうか。
僕は実験体だけど、ラボ内での行動制限はゆるい。狭い食堂で食べるのになんとなく嫌気がさして、敷地の池のほとりで昼飯を食べるようになったのは一ヶ月くらい前のことだ。
一人で食べるつもりだったのに、頭の上に皿があるヘンテコなヤツが池から顔を出し、僕が食べているキュウリを見て、
「おい、旨そうだな」
と声をかけてきたのが付き合いの始まりだった。
僕は味噌をつけて食べるのが好きだけど、アイツはそのままの味が一番だと言い張る。
「なあ、これってお前の母ちゃんの手作り弁当?」
何を思ったか真顔で聞いてきた。
「僕には母さんはいないんだ」
合成遺伝子から作られたと言っても通じないだろうと思って、僕はそれだけ言う。
「そうか」
うつむいて、ぽつんと一言。落ち込んでいるように見えて、
「うん、それさ、僕が栽培したんだよ」
僕はいつもよりテンション高く主張した。
暑さで食欲無い時に冷やしキュウリはぴったりだし、何より生産性がある。僕はこの仕事が好きだ。大山さんは、旦那さんがキュウリ好きだからと一緒に収穫する。
「そーかー、旨いな、お前のキュウリ」
「当たり前だろ」
ずっとこんな日が続くと当たり前のように信じてたんだ。
その日、いつになく深刻な顔でアイツはキュウリに手を伸ばそうとしなかった。それで、僕もずっとキュウリを握りしめていた。
「実はよ、今日でお別れなんだ。竜神様の直轄池にされるんだってさ、ここ。俺は配置転換」
そんな大切なこと、なんで今まで隠していたんだよ。こちらの表情を読みとって、アイツは深々と頭を下げた。
「ごめんな、なかなか言い出せなくて」
「……いいよ」
僕はつっけんどんにキュウリを手渡す。アイツはためらいがちに受け取って、クチバシを開く。
「最後に一つ聞いて良いか? なんで、お前にはエラがついているんだ?」
ぎこちなく笑顔を作った僕は、エラを撫でた。
「この温暖化現象で陸が沈没しても、生きていけるようにしたんだってさ」
初期段階の人間の胎児にはエラがある。その状態を保ったまま、強制的に成長させるんだ、と付け加える。かなり乱暴な説明だけど詳しいことは知らないから仕方ない。
「無理矢理引きずり出された胎児ってことか? 辛くないのか、それで」
「でもさ、僕はこうやって君に会えたよ」
僕自身は、この生を不幸だと思ったことはない。でも、この別れは生まれて一番悲しい。
僕たちは黙ってキュウリをポリパリ噛みしめた。
最後にアイツは僕の手をぬめっと握った。
「今までありがとうな。生まれるっていうのは、悪いことばっかじゃないんだな。決心ついたよ」
別れた後、ラボの図書館で調べたのは河童のこと。
出産直後口減らしのために殺された赤子は河童になるという伝承を見つけた。
それから僕は一人でランチタイムを過ごすようになった。
竜神様はキュウリはお好きではないらしい。
僕の周辺も色々変わりつつある。
すぐさま陸が水没するわけでもないのに遺伝子操作で新人類を創造することの是非や予算の削減の噂。ラボがつぶれたら、水族館に就職したいな、水に潜るのは得意だし。
そして、大山さんは産休を取っている。
僕は畑からキュウリをいっぱい取ってきて、彼女宛に送ることにした。
いつか、大山さんの子と一緒にキュウリを食べることが出来たらいいな。