
禁猟の園
侘しき吾が幼き世を育みし僻邑と雖も、蔵書もそのままに打ち捨てられしライブラリなど、今にして思ひ返せば、まことにありしことなりやとさへおぼつかなき心地す。曙の光も宵の陰りもその境の失せにし暗晦の窓辺には、永き世に積みし蛍雪の功も今や絶へ果て、塵埃と黴菌の交ぢり合ひてザラザラと息づく許りなり。
吾が天つ御使ひなる爾と相まみへしは、冬の雨降る夕暮れ、吾が宿りどころを求めて此のライブラリに立ち寄りしときのことなりき。数へて廿に垂んとする丈夫なりし吾の前に、爾はいとど天に寵されしエンジエルの姿にて現れたるなり。爾は濡れそめし翼を襤褸の如く抱きかかへ、書棚の隙間にて小さく震へをりき。
吾は爾の堕落をただちに天の寵愛と見定め、怪しむことなく爾を抱き上げ、石の如く熱を吸ふ爾の肌に、抱擁にて絶へず体温を注ぎ与へたり。爾の口には、偶然持ち合はせし菓子の欠片や飴玉を含ませてやりぬ。されど爾は、なほも地上のものとなるを拒むが如く、口に含みし吾が施しを悉く吐き散らし、吾が手をその穢れなき唾気にて濡らしたるなり。かくて吾は、ただ爾を抱擁してやることのほかなかりき。爾が持てる羽の柔きの下なる骨格の堅きは今にも手に蘇る心地す。あの折れし葦の如く垂るる脱力が、骨より手に直に伝はるあの感触は、吾が腕の中なるものの、いと儚く脆きことを如実に告げたるものなりき。
それから数日の間通ひし吾が献身の甲斐あり、爾の顔色はさながら爾の故郷の天光の名残を偲ばせるほどに恢復したり。斯様にして、爾は吾が情愛を糧として復活せしと言はむも、まことに他に言ひやふもなき奇跡の片鱗を吾の前に示したるなり。
はじめ、爾は殆ど人の言葉を解さざりき。爾はただ呻くやふに、あるいは愛玩の獣類の如き艶めかしき媚態の声を発して、吾の傾くる愛を貪りしのみ。幾日かありて、吾は唯一爾の口にするものを見出だせり。それは初めの日の如く雨の降りし夕暮れ、言の葉を教へむとて爾に手頃な本を読み聞かせしとき、爾はその一葉の端を食み、制せむとする吾が手の届く間もなくそれを呑み込みたるなり。やがて爾は、ア、ア、と何事かを発したり。爾は呑み込みし一葉に記されし言の葉を記憶に留め、それを発せむとしてをりしことを吾は悟りぬ。
それより吾は、なるべく保存良好なる書物を選びて、爾に授けてやりぬ。爾はみるみるうちにそれらの書を食らひ、操る言の葉もその度毎に増さりき。初等の書を幾冊か呑み込みし後、爾は漸く稚子並みの知恵を身に宿したり。爾は見目には十四五の麗しき乙女か、はた器量すぐれたる少年の形をしてゐたれば、此のほどあひは爾に哀切ともつかぬ、いささか妖しき趣を添へたるものなりき。
爾は真白き無縫の衣を纏ひたり。その裡に隠されし神域に思ひを馳せむとするも、吾が良心は責めを負ひて震へぬ。爾の露はなる肉体に値する聖きものを、吾は己が身に見出だすこと能はず。それこそは吾が細やかなる敬虔の念なりき。されど、悲しきかな吾は破戒の世を生くる若人なりければ、吾が崇拝の慎ましきに比して、吾が劣情の激しきこと、燻ぶりて消えやらぬ炭火の如く、吾が腰に宿りて爆ぜむ許りなりき。爾が肉体は恩寵満つる禁猟の園の如くありけり。
果ては、吾が心は極めて陋劣なる企てを謀るに至りぬ。その日吾は市井にて調へたる艶本より抜き取りて、爾に与へしなり。穢れを知らぬ爾の瞳は、嘗てとは趣を異にするそれら猥らなる図版を前にして輝き、小首をかしげつつも、許しを請ふが如き上目を吾に遣ひたり。吾は小さく頷きぬ。爾はゆっくりと味はふかの如く、それを食み始めしとき、吾が腰の昂ぶりはもはや影を潜め、ただ戦慄に堪へざる体なりき。
それよりのことは、ただ茫漠として思ひ出づる許りなり。吾に叶ふ贖ひは唯忘却のみとて、天つ神の裁きを受けしが如き心地せり。吾は記憶の底なる爾が裸身の上より、爾が本来纏ひし衣に似せたる白き装ひを重ね描きて、その神々しきを守らむとする虚しき足掻きをなしをり。肉の悦びは、爾が清らかなる魂に捧げられしのち、もはや二度とそれの繰り返さるべくもあらで、此の時より吾は陽の力を失ひたるなり。
爾との別れは思ひもよらず訪れにけり。かの神聖を涜せし日より、後ろめたき思ひに責められ、幾日か爾の前より姿を隠したる吾なりしが、ある日の荒き吹雪の折、心落ち着かずして爾の許を訪ねたるなり。その日のライブラリの様は明らかに異なりて、窓は猛き雪風に打たれながらも、辛うじて内は守られをりき。されど、書架といふ書架の書物は散り乱れ、否、食ひ荒らされたる有様なりき。吾は胸騒ぎに追はれつつ爾を探し求めぬ。かくて、初めて出会ひしかの書架の隙間に爾の姿を見出でたり。わが胸の予感せし事の、苛くも違わざりけり。その折吾を見据へたる爾が眼差しには、智慧を得し者の楽園を追はれゆく悲しみの色を湛へつつ、言葉なくして吾が罪の深さを諭したるものなりき。
吾が辱めの象となりし爾を見定めて吾は、羞恥とも憎悪ともつかぬ激烈なる情念の心頭に発し、心のままに爾を押し倒してその首筋に手を掛けぬ。キリキリと鳴りゆく爾の喉の触りを感じつつ、涙の滲む爾が眼もとに口づけをしながら、ただひたすらに両の手に力を込め続けたり。いつしか吾が両手は感触を失ひ、ただ聖なる者を殺めんとする不条理なる思ひのみが麻痺毒の如く肩まで昇りゆきしとき、漸く正気に返りたり。はたと爾の骸なるべき所に目を移せば、そはただ白き羽根のみをあたりに散らして、影も形もなく消え失せにけり。