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ピサの斜塔:科学と技術

歴史上の人物について伝わる伝説が,実はそれを記録した人の創作だった,という例は枚挙にいとまがない。ベートーベンが交響曲第5番のモチーフについて「運命はかくのごとく扉をたたく」と表現したとか,ジョージ・ワシントンが桜を切った話とか。そういう話のなかに,ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔から重い玉と軽い玉を落として,どちらがはやく落ちるかという実験をした,というのがある。これも,ガリレイの弟子のヴィヴィアーニという人物の創作であるとされている(諸説あり)。ただし,ピサの斜塔は関係ないが,ガリレオが重さに関係なく同時に落ちるという結論を導いたのは史実である。ちなみに「ピサの斜塔 + マヌケ」などで検索するとマヌケな画像がいくつかヒットする。

このガリレオの逸話はどういうものだったかというと,重いものと軽いものを同時に落とすと,どちらが先に落ちるか,という問題について,ガリレオがピサの斜塔で実験をして同時に落ちることを示した,という話である。ガリレオ以外にそういうことを考えた例はいくつかあるそうだが,ガリレオの方が圧倒的に有名だし,ガリレオはのちに斜面をつかって落体運動の時間依存などもしらべているので,落体問題とくればガリレオの名前がでてくるのは納得できる。
 この話をするときにガリレオと対比して定番で出てくるのは,紀元前ギリシャ時代の賢人アリストテレスである。アリストテレスは、重いものと軽いものを同時に落とすと、重いものが先に落ちると主張した。これは日常感覚からすると正しいと思われる。たとえば、それが羽毛とハンマーだと、ハンマーのほうが先に落ちるのはあたりまえのように感じる。しかし、これは空気の抵抗が羽毛により大きくはたらくからで、空気のない場所、たとえば月面などでは同時に落ちるはずである。実際、アポロ 15 号が月面に着陸したとき、この実験をしている

これはギリシャ時代の科学は根拠のない思弁にもとづいていたが,ルネッサンス期になって実験にもとづいて自然科学を構築しようという気運があらわれた,というストーリーの典型例として語られる。それはその通りなのだが,本稿で注目したいのはギリシャ時代のアリストテレスから 16 世紀ガリレオまで 2000 年近く時間があるということである。つまり、人類は 2000 年のあいだ、重いものと軽いものはどちらが先に落ちるか、という問題の答えを知る必要がなかったということだ。
 その間に,ローマ帝国は石造りの水道網を広大な国土にはりめぐらし,大開墾時代の農民はヨーロッパ全土を原生林から草原に変え,大航海時代の帆船は地球を一周するにもかかわらす,ものが落ちるというごく日常的なことに対して,誤った説が正されなかったのである。2000 年もの長きにわたって。

これは,2000 年のあいだ,人類が物体の重さと落下速度の関係について,とくに知る必要がなかったということを意味するのではないだろうか。もし,たとえばギリシャ時代の投石器を作るのに石の重さによる落下速度の差を知る必要があったら,アリストテレスの説ではうまく動作しないので,即座にその説の不備がわかったにちがいない。ガリレオの実験は,とくにハイテクな実験装置を使ったわけではなく,ギリシャ時代でも可能だからだ。しかし,実際には落下速度の差を利用した器具は作られなかった。落体運動の正しい法則は 2000 年間以上必要なかったわけである。

21 世紀に生きるわれわれは,科学というものが太古の昔から現在まで,一歩々々着実に進歩してきて現在に至るというようなイメージを抱きがちだ。しかし,科学史に興味のある人なら,ヨーロッパではギリシャ時代以降,長い停滞期があったことを知っているだろう。中世のインテリは「昔はギリシャ時代という賢いひとたちがいた時代があって,今よりずっと科学(当時は科学という言葉はなかったが)が進んでいた」と考えていたらしい。

ところが,ギリシャ時代からルネサンスまでのあいだ,ヨーロッパ文明全体が停滞期だったかというと,そういうことはない。長大なローマの水道網ができ,ヨーロッパの原野は開墾されてなだらかな牧草地になり,帆船によって地球の裏側まで探検がなされていたのである。
 ヨーロッパ文明の進歩がギリシャ時代からルネッサンスまで停滞していた,というとき,われわれは科学が停滞していたということが念頭にある。しかし,科学は停滞していたが,上に書いたように文明はおおきく進歩していたのである。つまり,科学の発達イコール文明の発達ではないわけである。では,ギリシャ時代からルネッサンスの間はなにが発達したのかというと,「技術」である。

科学か技術が専門のひとには,この両者がかなり違ったものであることはあたりまえだと思うが,そういう業界からはなれたところにいるひとにとっては,「科学技術」とひとまとまりにして言われるように,同じようなもので区別はよくわからないかもしれない。クラシック音楽ファンがヘビメタとパンクの区別がつかないようなものだ。
 しかし「科学技術」とは,本来「科学・技術」とわけてかかれるべきものであって,上でながながと書いたようにギリシャ時代からつづく人類の歴史では,まったくの別物だった。それが「科学技術」と不可分のもののように感じられるようになったのは,多分,電磁気学や熱力学が応用されるようになった 18 世紀ごろからだと思われる。

ひとことで言うと,科学とは「知りたい」,技術とは「便利に暮らしたい」という要求を満たす営みである。上で書いた「重いものと軽いものはどちらが先に落ちるか」という知識は2000 年以上科学的問題で,それが実用になることはなかった。
 それに対して,ローマの水道網やヨーロッパ原野の開梱は,ほとんど科学的知識は必要とせず,膨大なノウハウの蓄積で進展していった。たとえば,ローマ時代の壮大な水道橋は現在の基準からしても大規模建築であるが,これを造るのに必要な科学的知識はほとんどない。強いて言えば「石は硬い」というのと「水は高いところから低いところに流れる」ということぐらいだろうか。アーチ構造については,力学的な裏付けができるが,この構造を造ったのは科学的演繹による知識ではなく,このような形にすれば丈夫になるというノウハウである。

こう考えると,人類の長い歴史のほとんどの期間は科学と技術はまったく別の概念と考えられていたのであろう。いや,長い間,そもそも科学や技術という概念すらなかっただろうが,とにかく,「科学技術」という概念は人類の歴史の非常に特殊な時期にしか存在しないと言ってよかろう。そして,いまから科学と技術が乖離して発展してのでは,という話はまた後ほど。

(2025/1/10 初稿)

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