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エリアーデ

The Modern Jazz Quartetの「Pyramid」を聴きながら。子供のころ、実家にMJQのこのアルバムのCDがあり、そのジャケットがなんとも言えない存在感を放っていたのを思い出す。

今日も朝から仕事をして、12時間くらい仕事をして、疲れた。今日はガイダンスの演者、観客の反応はかなり良かったのでそこそこの達成感はあるのだが、それでも若干の疲労はたまる。明日は午前中がオフなので、今夜は少しだけまったりしている。

大江健三郎の小説だかエッセイだかでルーマニアの宗教学者、ミルチア・エリアーデの存在を知った。エリアーデが「indestractibility of human existence」という言葉を残している。「人間存在の破壊されえなさ」。たとえ世界が滅んでも、たとえ宇宙が消え去ったとしても、あなたが今この瞬間このように存在しているという、その事実を消し去ることは何ものにもできない。そこにはあなたという存在をそのままに受け入れる大いなる意思がある。結局そのような圧倒的な受容が、根本的な位相において励ましとして機能する。

「昼の日の光に、夜の闇の深さがわかるものか」というのは、たしか村上春樹が『風の歌を聞け』のなかで引用したニーチェの言葉だったような気がする。久々に大江健三郎の小説をぱらぱらとめくる中で、そんな言葉を想起した。人間存在のもろさの中にこそ、その深みは宿る。陰影礼賛。都市の片隅に宿る闇のなかにシュルレアル(超現実)への扉が眠るように、現実と幻影の狭間にこそ真実が潜む。

ネルヴァルの言葉だっただろうか、「夢もひとつの現実だ」。現実に捕らわれない想像力の自由を持つ、という、コクトー的な夢幻に誘われて文学の世界に踏み込んだ。文学というのは非常に遠回りな試みではあるけれど、批評のような鋭利さはないのだけれど、しかしその迂遠を介してしか到達できない湿り気というものもある。その湿り気というのが、言うなれば、あるいはそれのみが、生の深淵さへと私をいざなう。

ひとりの人間がひとりの人間を支えるという、その行いの崇高さをきちんと認識すべき。ひとりの人間が生きるということは大変な試みなわけで、そのともするとあまりにも当然の営み、あるいは日常をそのままに敬う、リスペクトするということは、実はとても大切な気がする。

複雑怪奇なこの人生を、安易に単純化することなく複雑怪奇そのままに受け入れ、愛でるという、それが大人の作法というものだろう。切れ味の良い鋭利な言葉を重ねるという、そんな子供じみた振る舞いに恥を感じる、そのような規矩を身につけてよい年になった。人生が「私」という存在のみの中で完結するという単純な図式でもないだろう。弱き自分を自覚し、さまざまな「面倒ごと」に翻弄される年月を根本的な次元において愛するという、そんな時を積み上げていきたい



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