「様々な思考のスケッチ」その1

 マンティーニャの聖セバスティアヌス殉教図を見ながら、自分が無数の弓矢に貫かれる姿を想像し、悶絶する。苦しみと生きることが一体になる。失神しそうになるところを、次の矢で撃たれる。脳天を突き抜ける苦痛。想像しているだけで、心臓が脈打ち、鼓動が聴こえるようになる。死ぬ思いがする。しかし、この瞬間、強烈に生きている思いもする。二律背反。
 戦後、自分はぬるま湯のような世界に放り出された。人権が与えられ、生を謳歌することが正しいとされるようになった。しかし、自分は天皇の赤子して生まれ、国のために死ぬことが、選ばれた者の証しであり、特権的な瞬間と考えていたのではなかったか。絶対に到達すること、絶対至福、恍惚の中の死。暗黒の死の中での黄金の生命の炸裂。
 喫茶店の窓ガラス越しに、行きかう人の流れを見る。物質的幸福をつかまされ、享楽する人々。だが自分には、これはアメリカから与えられた贋の幸福に見える。戦後、天皇は人間宣言をし、日本から絶対としての現人神は消えた。その結果もたらされたものは、相対的な価値観だけだ。今の日本人は絶対ということを忘れ、金の量に一喜一憂するようになった。下賤だ、と思う。そして、特攻隊の友を見送り、特権的な死を味わうことなく敗戦を迎え、自死する勇気もなく、今の今まで生きてきた自分も、たとえようもなく醜いと思う。
 聖セバスティアヌスの殉教図は、絶対ということを思い出させてくれた。無数の矢に貫かれた聖セバスティアヌスは死ぬだろうが、それでも確たる信仰によって、絶対の至福に到達できるであろう。しかし、自分はどうだ。聖セバスティアヌスにとっての神にあたる天皇は、既に人間になってしまっている。絶対がない。この私の中には、絶対がないのだ。価値観が崩壊している。ニヒリズムである。そして、そうてあるにも関わらず、のうのうと生きているのはデカダンでもある。絶対的な確信が欲しい。確たる信念が欲しい。
 図書館から借りてきた大判の美術書を閉じる。無数の矢に撃たれた自分のマゾヒスティックな悦びの自覚から、家畜人ヤプーのことを考え始める。家畜人ヤプーは日本人の事だろう。白人女性は、戦勝国であるアメリカを指すことは当然である。家畜人ヤプーは、新しいご主人様のために、嬉々として人体改造をも含めて、媚び尽くそうとするわけだが……。午後の日差しは厳しく、額にじっとりと汗が出てきた。奇々怪々たる贋物の奇想小説は、ジャン・ジュネに通ずるものがあり、小説の愉しみをおぼえたが、喪われた絶対者を復元させるヴィジョンを与えてくれなかった。この奇想は、終始、隷属的従属のうちに快楽を見出す試みだろう。
 或いは、友人が推奨していた眼球譚ならば、どうだろうか。生卵の上にお尻を載せるなどの瀆神的な行為が描かれたフランスの小説だが。
 ここで瀆神をめぐって、目まぐるしく思考が回転し始める。バタイユの『眼球譚』は、サドやニーチェの影響下に書かれた反キリスト教的な小説であるが、バタイユの盟友ピエール・クロソウスキーは、バタイユの一連の小説を、神を否定する身振りによって、逆説的に神を導き入れる試みと、『歓待の掟』の中で書いていなかったか。ちなみに、バタイユとサルトルは、ともに無神論者だったが対立関係にあり、サルトルは「新しい神秘家」でバタイユを攻撃した。サルトルとカミュの論争の時、サルトルはカミュを反有神論者と断定し、ありもしない神に反抗していると書いた。バタイユは、カミュの側に理解を示した。そう、幼い時に敬虔だったバタイユは、成人になると神を喪ったが、その後も神を逆説的に希求していた。一連の小説や哲学的エッセイで、激烈な瀆神的思考を開闢したが、それは眠れる神を叩き起こす行為だとしたらどうなのか。
 男は、残りの黒い珈琲を一気に飲み干すと、急に立ち上がった。戦後、日本は絶対者たる神を喪ったが、戦後にアンチを突き付ける瀆神的行為で、眠れる神を覚醒させればいいのではないか。これには、決死の行為が必要となるが、神を覚醒させたという確信の内に、自刃して永遠に時間を固定すればいいのではないか。瞬間を封じ込めるのである。生温い戦後の空気が影響を及ぼす前に、イデアの世界に、反時代的思念を永遠化して固定するのである。男の眼には、獰猛な狂気と繊細な理性が共存していた。男の唇から「クックック」という笑いが漏れた。


いいなと思ったら応援しよう!

TADAO HARADA
記事を読んでいただき、誠にありがとうございます。読者様からの反応が、書く事の励みになります。