森山風歩『風歩』
森山風歩さんの自叙伝『風歩』によると、中学生のとき「愛読書はサルトルだった。気味が悪い。」(222頁)だそうである。というわけで、やはり、中学生の頃、サルトルだの、カミュだのを読んで、気味悪がられていた人間が(最悪なことに『人生くん』と呼ばれていた時期すらある。人生観だの世界観だのを云々していたせいである。恥ずかしい。)この本を読むとどうなるかということを綴ってみたいと思う。
この本の著者は、PMD(進行性筋ジストロフィー)であるが、闘病記とは少し異なる。闘病というよりは、不自由な肢体であるがゆえに、周りから不条理ないじめ(そのなかには、最悪なことに、両親からの虐待も含まれている)を受け、そうした状況と格闘した日々が綴られている。PMDは、現在の医学では治療方法が確立しておらず、次第に筋力がなくなり、動かせない部位が広がるという病であり、死に直結する病である。私は、スティーブン・ホーキング博士のような長生きの例もあるから、風歩さんの主治医の見立てが外れることを願わずにいられない。本来、このような病になった場合、この病との闘いに焦点を絞りたくなるはずだが、この本を読むと、周りの人間の無理解で、いじめとか、親からの虐待、さらにはへし折れてしまいそうな自分自身を壊されないようにする闘いに時間をとられることになる。
いつだったか、パラリンピックの金メダリストがTVに出ていて、やはり肢体不自由のために親から虐待を受け、家にいられなくなったという話をしていたのだが、深刻な現実を受け止められずに、親が虐待に走るケースは、他にもあるのかも知れない。しかし、苦しんでいるのは我が子で、そのフォローが充分にできないからといって、逆に虐待に走るとは、なんということだろう。一番、助けて欲しい人に、裏切られるわけだから。無論、この場合、個人でのフォローは不十分であるから、社会制度に頼らざるを得ないだろう。しかし、その場合でも、我が子を抱きしめること、どんなことがあっても、自分たちが味方であるということを、子どもに伝えることが大切なのではないか。
この自叙伝を読んでゆくと、その過酷過ぎる状況ゆえに、否が応でも実存主義的にならざるを得なかった女性の記録であるということがわかる。
例えば、サルトルは評伝『聖ジュネ』のなかで、作家ジャン・ジュネは幼年期、私生児として生まれ、泥棒=不良少年の烙印を押され、その疎外態=対他存在としての状況と格闘してゆくなかで、次第に自己表現に目覚め、審美家に、さらには作家へと変貌を遂げていった過程を描きつくした。自叙伝『風歩』についても、同等のことがいえる。まず、肢体不自由がもとで、過酷ないじめに晒され、無理解な周りとの闘いのなかから、自分自身に目覚め、やがては自己表現に活路を見出す。これは、単なる病との闘いではなくて、全人格的な闘いなのである。
風歩さんは、本書を書き下ろす前に、写真家の荒木経惟に出会い、その被写体になろうとする。(本書の表紙も、荒木氏である。)なぜ、荒木氏か。思うに、荒木氏の写真は、静物を撮っても、女性を撮っても、そこに死と生、光と翳のせめぎあいがあり、そのせめぎあいのなかから、エロティシズムが喚起されるという構造をしている。作風は、私小説風であり、自然主義的である。死と生のせめぎあいという点では、ロバート・メイプルソープに通じるものがあるかも知れないが、メイプルソープがフォルム(形態)の美にこだわり、スタティック(静的)あるのに対し、荒木氏の場合は、静物を撮る時であっても、その背後に猥雑ともいえるエネルギーが感じられるものとなっている。
実のところ、被写体になろうとする女性心理は、男性の私にはわからない部分がある。しかしながら、一見、性に関して世間の良識を逆なでする部分があるのは、彼女には世間体をかまっていられるほどの時間がないからであり、限られた時間のなかで、自分に納得のいく生き方を選びたいがゆえであり、さらにはPMDによっても損なわれない女性としての自己存在を、自己認識するために必要だったからだろう。
自分のレゾンデートルを賭けて、自己表現に向かう風歩さんは素敵だし、風歩さんもがんばっているんだから、自分もがんばらなくっちゃね、と思えるのだから、本書はポジティヴな本といえるだろう。究極の(たぶん、究極だ)ネガティヴな状況を闘い抜いてきた記録なのだから、これに勝るポジティヴな本って、ちょっとないんじゃないかと思う。
初出 mixiレビュー 2009年07月08日 07:04
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