高野山の旅②〜奥之院〜
宿坊に泊まって翌日。
六時過ぎから、お寺の僧の方々と朝の修行です。
これは荘厳でした。
お堂の中は、天井にずらっとぶら下げられた、いくつもの灯籠が薄暗く光を照らしています。
外では大雨の降りしきる音が聴こえています。
おおよそこんな感じ。
(引用:http://www.1-em.net/sampo/kukai/img/koya001.jp)
修行は、空気がぴんと張り詰めていながら、気持ちはほぐされていく、そんな不思議な心持ちでした。
四〇分の修行の後、朝のご飯です。
ごちそうさまでした。
食事後、早々奥之院に向かいます。
奥之院入口。
朝一番でいくと、ほとんど人もいません。
奥之院の一番奥には、未だ空海が即身仏となり鎮座ましましております。
写真だらけになります。ご容赦ください。
有名な人のお墓が沢山あります。
明智光秀の墓もあれば、豊臣秀吉の墓もあります。
大岡越前のお墓も。
奥之院は入るとグッと空気が変わります。
生と死の境のような場所です。
生きるということと、死ぬということの連続性や、密接さを感じます。
死を弔う場所でありながら、緑が生い茂るこの場所。
生まれ死に、死に生まれ育む円環を感じるに、
生きるということは、楽しいことであるのか、辛い修行なのか、答えのない問答をずっとしてしまうのでした。
空海の御廟の前には橋が、設けてあります。
ここより先は撮影禁止です。
この先にて、空海はまだ"生きて"います。
その為、毎日朝六時、そして十時半の二度食事が、
御廟橋の手前にある建物から御廟へと運ばれていきます。
「生身供」と言うそうですが、十時半の食事を運ぶ所を見ることができました。
一枚目の写真で傘を差している僧の方を、
「維那(ゆいな)」と呼ぶそうです。
維那だけが、今の空海の姿を見ることができます。
そして、他言せずにその役目を次に引き継いでいくのです。
空海は即身仏として、人から人へと引き継がれていく様々なものを今も高野山奥之院からきっと見守っています。
正しいかはわかりませんが。
奥之院はこれにて終了。
〜つづく〜
また、空海のことばです。
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
生まれることも、死ぬこともまた暗いのでしょうか。
なら光はどこにあるのか、
それを探すことが生きることなのやもしれません。
なんて偉そうに書いて、赤面するのでありました。