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私が体験した熊送り、そして図書館、イザベラ・バード 花のカメラマン 土屋 忠紀

昭和 24 年、私は 6 才だった。私の住んでいた善光寺の東門の道ぞいに 13 軒の家があり私の家の右隣は母の妹の海軍兵学校夫妻で隣は口を染めたアイヌ人の婆さんがいた。

左隣は室蘭の栗林の船長さんで、そして斜め前には、いつも犬の毛皮のそでなしを着たデップリと肥えたアイヌ人がいた。外出は馬にまたがり、時には古い村田銃を背にすることもあった。
だれもがサンケオドと呼んでいた。もう一人同じ体形の「耳タロウ」がいた。子供に会うと「耳食うぞ」と本当に耳に食いついた。

どの子も「耳タロウ」を恐れていた。二人は兄弟で有珠のスターだった。
雪も融け始めた頃、サンケオドに「肉を食わせる」と誘われ、その夜姉と茶碗を持って行った。
すでに土間の玄関に長靴であふれていた。うす暗い居間の囲炉裏の鉄鍋に山盛りの肉が煮えていた。
湯気の向うに髭面の男がならんでいて、すぐに肉をよそってくれた。肉は硬くまずかった。

間もなく家に戻ったのか記憶はここまでだった。


時は過ぎ…ヨサコイ・ソーランの写真でメシを食うべく仕事をやめた。大きなレンズのカメラにスタイルも踊りも抜群な有名チームのトップの踊り子が何人も、私を撮ってと、声をかけてきた。
室蘭丸井さんでの写真展には札幌から 30 名も来てくれ「私をこの様に撮ってくれて光栄です」と礼状が来た。

自信をもって札幌に行った。しかし世の中甘くはなかった。マスコミ・雑誌やチームからの写真のオファーはなかった。
落ち込んだ。居場所がなかった。

そんな時だった。「ひまわり」という札幌市中央区の地域ミニコミ紙(300 部)の編集長から「何か書きませんか」と声がかかった。1 年以上読んでいたのですぐOKの返事をした。
私の名刺ですと編集長から 3 冊の本と「ひまわり」100 号記念の縮刷版を手渡された。編集長は私立高の元教員だった。

「3 年B組金八先生」が話題になった頃、どこの町でも急速に変化する世に疎外感で暴発する生徒も多かった。そんな生徒と共に悩み苦闘する様を日刊学級新聞にし悩みを共有していた。良くも悪くも、生徒のエネルギーは凄まじかった。この「ひまわり」に熊送りの事を書こうと私の図書館通いが始まった。

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