語り合う場
昨日は月一の会(と言っても3、4人の集まりだけれどかれこれ三十年細々と続いている)だった。
某ファミレスにかなり長居するので、ランチの他にデザートも摂ることにしている。
何をする会かというと、一つテーマを決めて意見を交換する。
政治や宗教とは無関係、何かの販売でもない。
テーマの主は人権だから題材に事欠かない。
というか、日頃何気なくしている雑談も人権問題と言って過言でないと思う。
著しく侵害しているにしても(爆笑)
人権をテーマにおばさんたちが何を話してるんだ?
とつっこまれる前に言っておくと、たいしたことは話し合っていない。
話し合った成果をまとめてどこかで発表したり、誰かに説教したり伝えたりなんてこともしない。
ただ集まって話しているだけなのだ。
それならさぞかしタダノは人権感覚の研ぎ澄まされた人物であろう、もしくは、そう思い込んでいるだろうと思われるかもしれないが、まったく逆である。
乏しいからこそ、見失うからこそ考え続けるのだというのが会員(3、4人だけど)同士の共通理解である。
この手の話を臆面なくできる場というのは貴重である。
職場や趣味の集まりでこんな話題を引っ張りだしたら場は一気に興醒める。
昨日は二人が、あることについてコアに語り合っていた。
隣でもう一人と軽く雑談をしながら聞き耳をたてた。
微妙に論点がずれているのに二人は気づいているのかいないのか…
話し合いは平行線である。
この会じゃなくても、こんなことは珍しくない。というか普通だ。
誰もがたいてい、自分の主張に囚われてしまってそこから離れない。
それどころか、自分の主張を押し通すことこそ論破だと思っている節も無きにしも非ず。
自らの主張を正確に念頭に置きながら相手の話を聞いて、まずは論点を整理するのはとても難しいし、お互いにそれができなくては話にならない。
少なくとも私には無理無理無理無理。
意見を交換するためには、中立な立場で橋渡しをする人が絶対必要なのだ。
だからここで実りのある話などできない。
できないけれど、考えていること思っていることを言葉にして伝えようとする。
そしてこれをちゃんと聞こうとする、耳だけでもね。
それが許される場というのは、意外にないと思いませんか?
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