傘
夕方から雨が降る、と残念そうにテレビのアナウンサーが言っていた。朝のニュースに出ているアナウンサーなんて、夕方にはもう家にいて寝る準備をするだろうに、なんとも悲しそうな顔をしていて、空虚だなと思ってしまった。
リュックサックに、私は素直に折りたたみ傘を入れる。雨は嫌いではないけど、雨に濡れるのが苦手なのだ。リュックサックの中の本が濡れてシワシワになるのを想像してしまうから。
雨が降っても大丈夫な靴を履いて、玄関のドアをあけると、すでに小雨が降り始めていた。なんだ、折りたたみ傘要らなかったなと思ったが、入れたまま、玄関脇のビニール傘を手に取る。このビニール傘はコンビニで買った500円のやつで、どっかで引っ掛けて小さい穴があいている。日本の技術はすごいので、そのくらいなら全然染みないし、平気だ。貧乏性なので、とんでもない穴があくまで使いたおそうと思っている。
その日は5限から院のゼミがあった。昼すぎに家を出たが、5限が始まる17時ごろには本降りになっていた。天気予報的中。あのアナウンサーは家で雨音を聞いているだろうか。
ビニール傘を持ってきてよかった。私は傘のさし方が下手なのか、傘をさしてても服がビシャビシャになる。この降り方では、折りたたみ傘だったら悲惨なことになっていた。危ない危ない。
ゼミ中は雨の音が気にならない。
しめっぽい空気のなか、乾燥した暖房の風が私の肌を脅かす。マスクを外さないと、永久にニキビがなくならないだろうなと思う。マスクを外してもなくならないかもしれないけど、そんなこと恐ろしすぎて今は想像したくない。
ゼミが終わる頃も変わらず雨は降っていて、ゼミのメンバーは各々の傘をさして帰ろうとしていた。
そんななか、Kがゼミのメンバーに絡んでいた。傘がないらしい。Kのブルーのダウンはすでにネイビーになりかけていた。
Kは不思議な喋り方をする先輩で、これは本人に言えてないけれど、昭和の文豪のような喋り方をする。川端康成のような。私はKの喋り方が好きだった。滑らかで線が細めで、ごつごつしていなくて、耳にゆるりと入ってくるようだからだ。研究者を目指しているからか、とても大人しく、普段は同年代の半分くらいの生命力しか感じないのに、議論になると煌めき始め、文豪のような声で自論を主張したり、相手にスパスパと質問をするようなひとだった。
私はリュックサックに折りたたみ傘が入っていることを思い出して、ビニール傘をKに押しつけた。
Kは驚いていた。
「いや、悪いです。」
「気にしないでください。折りたたみ傘持ってるので」
「いやいや、私は、家、近いので。」
家が近いというのは嘘だ。電車で40分もかかるところに住んでいると、この前言っていた。
「返さなくて大丈夫です。ビニール傘だし、古いので。」
「いや、返します。来週、絶対返します。すみません、ありがとうございます。」
「返さなくて大丈夫です、ほんとに。では、お疲れ様です。」
「返します。忘れないです。来週。ありがとうございます。」
Kは本音では傘がなくて困っていたのだろう。Kのリュックサックにも何千円もする研究書が入っているはずだ。濡れたら困る。
Kは申し訳なさそうな顔をして、ビニール傘をさしていた。穴のあいてるビニール傘を、大事そうに、両手で持つKを見て、なんだかいじらしくてかわいいなと思った。
次の週、5限のゼミでは、私がいつも定位置にしている席の近くにKが座っていた。Kはいつも前の方に座るので、私に話しかけるために座ったのかなと思い、それも可愛かった。
「すみません、傘を忘れてしまいました。リマインダーまでしたのに、朝、学生証紛失騒ぎで、頭からすっかり消えてしまっていました」
Kはしょぼくれた顔で謝った。
「大丈夫ですよ!古いですし、差し上げます。捨てても大丈夫です。」
「めっそうもない!来週、はゼミが休みなので、再来週、絶対持ってきます。すみません」
なんでこんなに返したがるのか分からなかった。人に優しくされたことがないのだろうか?もしくは苦学生すぎてビニール傘を超高価だと思っているのだろうか。
ゼミの帰り道はKのことしか考えていなくて、まるで恋だなと自分を客観視して可笑しくなった。不思議な人で、なんとなく謎が残るから、考えずにはいられない。
来週、また5限にゼミがある。
Kは傘を持ってくるのだろうか。なんとなく、楽しみになってしまう。
おわり
ティソ