「そこになかったもの」をつくるたのしさ

野菜を育ててる。

えらそうに「育ててる」なんて書いたけど、雑草ぬいて、肥料混ぜてつくった適当な土に、なんも考えずに苗をぶっこんで、バカみたいに水をやってるだけ。

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そしたらこんな立派な夏野菜が収穫できた。生命力 is ワンダフル。

最近、朝起きるのがたのしい。野菜がどれだけデカくなってるか見たい。

昨日まで小指くらいだったオクラが、起きたら中指よりデカい。人間以外の成長スピードをなめたらアカン。

今まで野菜なんてまともに育てたことなかったから、恥ずかしながらキュウリやトマト、オクラがどんな風に育っていくかも知らなかった。収穫するとき、野菜があんなにチクチクするとは知らなかった。

少し前、ただの土だったその場所に「なかったもの」が今はある。


東京で生活していたころは味わえなかったおもしろさ。

もちろん、どれだけ都会でも「そこになかったもの」を作り出している人は五万といる。場所に左右されず、できることはたくさんある。

「つくる」ってあたりまえだけどこんな風に野菜を育てることだけじゃない。こうやって文章を書くこともそうだし、音楽や映像をつくることもそう。

料理をすることもそうだし、いっちゃえば仕事の多くは「そこになかった」欲やモノやサービスを満たしてよろこばせてあげること。

でも、都会にいたころ、ぼくは常に「サービスを受ける側」だった。よろこばせてもらう側だった。

あっちにできた店に行き、こっちであるイベントにいく。あっちに出た商品を買い、こっちに出たランチを食べる。

あらゆる場所でサービスを受け続けた。

サービスを受けることがしあわせだった。

それはすごくたのしいことだったけど「サービスを“受ける”たのしさ」で東京に敵う場所なんてない。だからこのサービスの味しか知らないと「東京以外」に目や足が向けられなくなってしまう。

東京以外の価値をずいぶん低く見積もってしまう。


「そこになかったもの」を「つくる」側になることは、ぼくには田舎が向いていた。

あっち店もこっちのイベントにもいけない。

あの商品もこのランチもない。

だから、仕方なく、ぼくは代わりになるたのしみを探す。

だから、仕方なく、ぼくはなにかをつくる。


最近はほとんど毎日、下手くそなギターを鳴らしている。ぼくが手首を振らないと鳴らなかった音が鳴る。

今だって、キーボードを叩かないとだれの目にも触れなかった文字を打つ。

もっともっとつくりたい。もっともっとあそびたい。

これからは「つくる」たのしみをたくさんたくさん味わいたい。


時間とお金、この材料に余裕はある。

あとはどう「つくる」かだ。


つかおう頭、動かせ身体。

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