炎の第三次ソロモン海戦:第1章 危機線上のガ島基地 ~ 4.南太平洋海戦

(「3.火の海」からのつづき)


4.南太平洋海戦

ヘンダーソン基地は、なおも悲鳴をあげねばならなかった。八艦隊のつぎには、前進部隊が登場した。十五日の朝、重巡妙高*1、摩耶*2および二水戦*3が、わが支援部隊の隊列から抜け出た。そして夜十時、三たびヘンダーソン基地に二十糎砲弾を射ちこんだのであった。

ガ島の総攻撃は、二十二日深夜と予定された。砲撃の効果に目をまるくした陸軍側は、総攻撃当日の午後一時まで砲撃の続行を希望した。十七軍*4につつかれたラバウルの八艦隊司令部は、戦艦をもってする砲撃を、またもや支援部隊*5に要望してきた。八艦隊、および妙高以下の二回の砲撃が成功したとはいうものの、所詮は二十糎砲であった。その効果が三十六糎砲にはるかに及ばない憾み*6は、どうしても拭い去れなかった。

といって、そう簡単に陸軍の要求をかなえられるものではない。ガ島に突入するのは、薄氷を渉るような危険を伴っている。サボ島沖夜戦がそれだ。のみならず、南太平洋の戦祝も、次第に嵐をはらみつつあった。

このころ、ようやく敵機動部隊が、ガ島の南東海面に姿を現わした。そして、わが方に攻撃をしかける態勢をとったかと思うと、また南方に踏晦*7する。わが方では、敵の巧みな行動のために、その胸ぐらをつかめない日が続いていた。ともかく、敵が虎視眈々として、空母決戦の日を狙っているのは明らかであった。

このころ、われわれ支援部隊も、南下したかと思うと北上し、北上したかと思うと南下する行動をくりかえしていた。長大にして無用の之字運動*8であった。これは、敵の機動部隊の出役のせいもあったが、もっと大きな理由は、ガ島総攻撃が、一日また一日と延引を重ねているためであった。

この遷延を、当時の連合艦隊参謀長宇垣中将*9(左トラック*10)は、その日記に痛烈に批判している。

「⋯⋯Y日(総攻撃開始日)を一日延期、二十三日とする旨電あり。やむを得ず同意了承せるが、これ以上の延期は海上主作戦上しのび得ずと返電し、釘を一本打ちこめり。あれぐらい強い昨日の電に対し、今日は改変す*11。なんぞ信頼性の少なき」

「陸上作戦は、一日、二日の遅延は痛庠なきも、現に広域にわたり連繋*12機動中の海上作戦部隊にとりては、きわめて大きな影響を与うることを、屢次*13話しあるところ。耳にたこのできるほど教えても、自己些少*14の利害のみにより去就を決し⋯⋯」

二十四日になって、やっと陸軍部隊も攻撃を開始した。しかしながら、犠牲をいとわぬ猛攻を加えたにかかわらず、ついにこの第三次総攻撃もあえなく潰え去った。

いまや、蟻の一穴は、次第に拡がって行こうとする。憂いは艦隊を包みこんだ。

暗い思いのうちに二十五日の夜はあけた。味方機動部隊の南方に進出していたわが前進部隊は、早朝哨戒のB29*15に発見された。敵空母がひそむ海だ。前進部隊は急遽反転して、敵の目をくらました。昨日までガ島上空を覆っていた戦雲は、ようやくその東方に移ろうとするのであった。

それを裏書きするように、アメリカのラジオは、大胆な予言を発したのである。

「近くソロモン方面において、大海空戦が行われるであろう!」

果して、敵は多数の索敵機を放っていた。二十六日午前零時半、敵飛行艇が突如、南下中の機動部隊の上空に現われた。そして、瑞鶴*16に至近爆弾を投じた。

これが、南太平洋海戦*17の幕明きを告げる析(拍子木)であった。

この海空戦の結果、わが方は翔鶴*18と瑞鳳*19に爆弾が命中したが、ともに被害は大したことはなく、全速航行が可能であった。これにひきかえ、敵の二空母のうち、ホーネット*20が海底へ沈んで行き、エンタープライズ*21もまた大破した。駆逐艦ポーター*22も、沈没の悲運をみた。アメリカのラジオ予言は、ひっこみのつかないものとなった。

去る九月、第二次ソロモン海戦*23で竜驤*24を失った復讐は、ここにやっとなしとげられたのであった。また、ガ島総攻撃失敗の憂愁も、ようやく払いのけることができた。つまり、江戸の仇を長崎でとった*25わけである。

とはいえ、江戸の仇は、やはり中心の江戸ではらすべきものであった。

(「第2章 挺身攻撃隊出撃す! ~ 1.伊集院艦長」へつづく)


管理人による脚注

*1:妙高(みょうこう)
1929年に竣工した旧日本海軍の重巡洋艦で、妙高型の1番艦。新潟県の妙高山にちなんで命名された。太平洋戦争中、珊瑚海海戦やミッドウェー海戦にも参加した。1946年7月8日に海没処分され、同年8月10日に除籍となった。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/妙高_(重巡洋艦)

Japanese navy. (1941). Picture of Japanese heavy cruiser Myōkō on trials after second modernization [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:My%C5%8Dk%C5%8D_trials_1941.jpg (Retrieved October 22, 2024).

*2:摩耶(まや)
1932年に竣工した旧日本海軍の高雄型重巡洋艦の3番艦。兵庫県神戸市の摩耶山にちなんで命名された。太平洋戦争中、フィリピン進攻作戦や蘭印作戦などの南方作戦に参加し、1943年のラバウル空襲で大破後に近代化改装を受けた。1944年10月23日、レイテ沖海戦で米潜水艦の雷撃により沈没した。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/摩耶_(重巡洋艦)

Here is the APA citation for the image with today's retrieval date: www.wwii-collectibles.com. (n.d.). *Heavy Cruiser Maya* [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Heavy_Cruiser_Maya.jpg (Retrieved October 22, 2024).

*3:二水戦
第二水雷戦隊のこと。

*4:十七軍(第17軍)

太平洋戦争中に南太平洋諸島で活動した旧陸軍の部隊で、アメリカとオーストラリアの連絡を遮断するために南太平洋の島々攻略に関与した。1942年のガダルカナル奪還作戦においては、制空権を失い補給不足のまま戦闘を強いられた。上陸時には31,000人以上いた兵員は戦死や病死により約10,000人にまで減少した。撤退後はブーゲンビル島に転進し、終戦時にはソロモン諸島で防衛を担った。

Citations: https://www.jacar.go.jp/glossary/term/0100-0040-0120-0010-0020.html

*5:支援部隊
前進部隊(第二艦隊)と機動部隊(第三艦隊)から成る部隊。

*6:憾み(うらみ)
もの足りなく感じること。

*7:踏晦(とうかい)
姿をくらますこと。

*8:之字運動(のじうんどう)
ジグザグに進む運動のこと。ジグザグの形が漢字の「之」に似ていることから。

*9:宇垣中将
宇垣纏(うがき まとめ)(海軍兵学校第40期)は、旧日本海軍の中将で、連合艦隊参謀長を務めた。真珠湾攻撃の実現に関与した。部下との交流を大切にし、浴衣姿で士官達と歓談したエピソードが残っている。また、日々の出来事を詳細に記録した『戦藻録(せんそうろく)』は貴重な歴史資料となっている。1945年8月15日、終戦の日に沖縄方面で亡くなったが、その最期の詳細は不明。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/宇垣纏

Matome Ugaki [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Matome_Ugaki.jpg

*10:左トラック
トラック諸島の「西側」を指すものと考えられる(詳細不明)。

*11:あれぐらい強い昨日の電に対し、今日は改変す
「あれぐらい強い昨日の電(でん)」とは、前日に送られた強い調子の電報や指示を指す。「今日は改変す」は、その強い指示が翌日には変更されてしまったことを意味している。

*12:連繋(れんけい)
互いにつながること。 他と密接な関連をもつこと。 つながり。

*13:屢次(るじ)
しばしばあること。

*14:些少(さしょう)
取り立てて言うに及ばないほど、少しの分量であること。わずか。

*15:B29(Boeing B-29 Superfortress)
アメリカの大型戦略爆撃機で、第二次世界大戦中に日本本土空襲に使用された。高度9,000 mでの圧力維持や、専門の航空機関士を配置するなど、先進的な設計が特徴であり、戦闘重量は約44,100 kgで、最高速度570 km/hを誇った。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/B-29_(航空機)

A Boeing B-29 Superfortress flying in high altitude [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:B-29_in_flight.jpg (Retrieved October 22, 2024).
*:瑞鶴

*16:瑞鶴(ずいかく)
旧日本帝国海軍の航空母艦で、翔鶴型の2番艦。1941年に就役し、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦など多くの戦闘に参加した。特にマリアナ沖海戦では被弾せず、幸運な艦とされた。1944年10月25日、レイテ沖で沈没し、その後1945年に除籍された。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/瑞鶴_(空母)

Hando, K. Japanese aircraft carrier Zuikaku at Kobe, 25 September 1941, the day she was completed for service. U.S. Naval Historical Center Photograph. Retrieved October 23, 2024, from http://www.ibiblio.org/hyperwar/OnlineLibrary/photos/sh-fornv/japan/japsh-xz/zuikaku.htm

*17:南太平洋海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)
南太平洋海戦は、1942年10月26日にソロモン海域のサンタクルーズ諸島沖で行われた日米機動部隊間の重要な海戦。この戦いは、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場をめぐる攻防の一環として発生した。旧日本海軍は戦術的勝利を収めたが、戦略的には目的を達成できなかった。日本軍は空母2隻(翔鶴、瑞鳳)を損傷させる一方、米軍は空母ホーネットを失い、エンタープライズが中破した。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/南太平洋海戦

RememberedSky.com. 
http://rememberedsky.com/?p=2296 (Retrieved October 22, 2024).

*18:翔鶴(しょうかく)
旧日本海軍の航空母艦で、翔鶴型の1番艦として1941年に竣工した。第三次艦船補充計画の一環として建造され、大和型戦艦とほぼ同時期に完成した。34ノットの高速性能と充実した防御能力を持ち、太平洋戦争中の多くの重要な海戦に参加した。1944年のマリアナ沖海戦でアメリカ潜水艦の攻撃を受けて沈没するまで、日本海軍機動部隊の主力として活躍した。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/翔鶴_(空母)

Aircraft carrier Shōkaku [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aircraft_carrier_shokaku_h73066.jpg (Retrieved October 22, 2024).

*19:瑞鳳(ずいほう)
旧日本海軍の航空母艦で、瑞鳳型の1番艦。1935年に起工し、1940年に竣工した。最初は給油艦として建造されたが、計画変更により潜水母艦を経て航空母艦へと改造された。戦時中は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に参加し、重要な役割を果たしたが、最終的には敵艦載機の攻撃によって沈没した。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/瑞鳳_(空母)

Japanese aircraft carrier Zuihō [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_aircraft_carrier_Zuih%C5%8D.jpg (Retrieved October 22, 2024).

*20:ホーネット(USS Hornet (CV-8))
アメリカ海軍のヨークタウン級航空母艦。1941年10月20日に就役し、1942年4月には日本本土への初の空襲として知られているドーリットル空襲に参加。その後、ミッドウェー海戦にも参加し、重要な役割を果たした。さらに、ソロモン諸島での戦闘でも活躍。1942年10月26日の南太平洋海戦では日本軍の攻撃を受けて大破し、翌日の27日に沈没した。就役からわずか1年と7日での沈没だった。

Citations: https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Hornet_(CV-8)

Naval History & Heritage Command. (1941). Aft view of USS Hornet (CV-8), circa in late 1941 (NH 81313) [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aft_view_of_USS_Hornet_(CV-8),_circa_in_late_1941_(NH_81313).jpg (Retrieved October 22, 2024).

*21:エンタープライズ(USS Enterprise (CV-6))
1938年に就役したヨークタウン級航空母艦。ミッドウェー海戦や真珠湾攻撃など、重要な戦いに参加し、アメリカの艦艇として最多の20個の従軍星章(バトルスター)を得た。「ビッグE」の愛称で親しまれ、大戦を通して最も多くの勲章を受けた艦船で、71隻の敵艦を撃沈し、911機の航空機の撃墜に貢献したとされる。戦後、博物館として保存しようとする市民の動きがあったものの、1958年から1960年にかけて解体された。

Citations: https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Enterprise_(CV-6)

Naval History & Heritage Command. (1945). The U.S. Navy aircraft carrier USS Enterprise (CV-6) making 20 knots during post-overhaul trials in Puget Sound, Washington (USA), on 13 September 1945 [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Enterprise_(CV-6)_in_Puget_Sound,_September_1945.jpg (Retrieved October 22, 2024).

*22:ポーター級駆逐艦(Porter-class destroyer)
アメリカ海軍が1933年から1937年にかけて建造した駆逐艦の艦級で、全8隻が就役した。主に対空戦闘能力を強化するために設計され、38口径5インチ砲を4基搭載し、最大速力は35ノットに達した。この艦級は、第二次世界大戦中に多くの戦闘に参加し、特に南太平洋での戦闘で活躍した。

Citations: https://en.wikipedia.org/wiki/Porter-class_destroyer

Naval History & Heritage Command. (1939). USS Porter (DD-356) off Yorktown, Virginia (USA), on 19 April 1939 (NH 66338) [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:USS_Porter_(DD-356)_off_Yorktown,_Virginia_(USA),_on_19_April_1939_(NH_66338).jpg (Retrieved October 22, 2024).

*23:第二次ソロモン海戦
太平洋戦争における重要な海戦(1942年8月23日-25日)で、日本とアメリカの艦隊がソロモン諸島近海で激突した。日本はガダルカナル島への増援を試みるも、アメリカ軍の空母機動部隊に阻まれ、軽空母「龍驤」を喪失し、輸送船団も壊滅的な損害を受けた。結果としてアメリカが勝利し、日本軍はガダルカナル島の奪回に失敗した。この戦闘は、連合国側の航空優勢を確立する重要な一歩となった。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/第二次ソロモン海戦

*24:竜驤(龍驤(りゅうじょう))
1933年に就役した旧日本海軍の航空母艦。当初は格納庫1段で24機の搭載を計画していたが、建造中に2段に変更され36機に増加した。排水量約11,700トン、全長180mの比較的小型の船体に大型の上部構造物を持つ特徴的な外観を呈していた。1942年8月24日、第二次ソロモン海戦において米潜水艦S-44の魚雷攻撃を受けて沈没し、その生涯を終えた。

Citations: https://ja.wikipedia.org/wiki/龍驤_(空母)

Japanese aircraft carrier Ryūjō underway on 6 September 1934 [Photograph]. Wikimedia Commons. https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_aircraft_carrier_Ry%C5%ABj%C5%8D_underway_on_6_September_1934.jpg (Retrieved October 22, 2024).

*25:江戸の仇を長崎でとった
「江戸の敵を長崎で討つ」は、意外な場所や時、あるいは筋違いな状況で過去の仕返しをすることを意味することわざ。
語源については、元々「江戸の敵を長崎が討つ」であったという説がある。由来は江戸時代に遡り、大阪の見世物師が江戸で成功を収めたことに対する江戸の見世物師の不満が背景にある。その後、長崎からポルトガルやオランダの精巧な細工物の見世物が江戸に到来し、大阪の見世物師を凌駕したことから、江戸っ子たちが「江戸の敵を長崎が来て討つ」と言ったことが起源とされている。この表現が時を経て、「がきて」が「で」に変化し、現在の形に至ったとされる。

Citations: https://ja.wiktionary.org/wiki/江戸の敵を長崎で討つ

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