「あたりまえ」って言葉について考える
どうやらnoteには目次機能がある事を昨日知りました。機能だけにね(ドヤ)
最近、胃腸の調子が悪いただです。
皆さんはご存知ですか?
「トモダチナラアタリマエー」「アルシンドになっちゃうよー」と言う90年代にブームなったCMを。
あ、アルシンドは特に関係ないですよ。
さて、今日は「あたりまえ」についてのお話。皆さんはこの言葉を言う事が多いですか?聞く事が多いですか?
「そんなん当たり前やで」「〇〇は知ってて当たり前」とかよく聞きけど、そもそも当たり前の定義って何?って考えたことないですか?
人と違う事をするのダメという風潮
僕は昔からあまのじゃくで、人と同じ事をするのが嫌いな子でクラスでみんあが盛り上がってるのを遠くから見るタイプのスレた人間でした。(でもそんな自分が好きでした)
中学校の頃流行ってたB'zはなんかみんなが聞いているって理由で聞かず、僕はシャ乱Qやclassを聞いていたし、高校の頃もみんなGLAYやラルクを聞いていたけど、僕はシャズナとTMレボリューションを聞いていた。
でも流行ってるものを知らないと
「こんなん知ってて当たり前やで」「えー?知らんのだせー」みたいな事がよくあります。
日本は多数派が正義で少数派は悪みたいな考えがあるなーと、特に人が集まる学校や社会に置いてそう感じます。
もちろん僕も「あたりまえ」って言葉を使ってたし、自分が早めに目をつけてた画が人気になったら
「えー知らんのー?俺なんて単行本1巻発売日に買ったわー(ドヤ)」
とか言うてました。社会人の時も変に尖って目立つより、多数派の中でひっそりとしてる方がいいと思ってたけど、結局自我が抑えれずフリーランスになって色々な人や、自分らしく生きている素敵な人を見て思ったのです。
「あたりまえ」の反対語は「ありがとう」
法事の時にお坊さんの法話で聞いたんですが、「あたりまえ」の反対語って「ありがとう」なんですって。
具体的な話はまったく覚えてないので割愛しますが、気になった方は自分で調べてみてね、今ちょっと調べてみたけど難しくてちゃんと理解できません。
ざっくり言うと、人は死ぬ事が「あたりまえ」なので日々「ありがとう」と感謝をしましょうと言う事ですかね?
となると、「あたりまえ」って100パー共通する事に使う言葉と言う事です。
気軽に使う「あたりまえ」って言葉は、自分の価値観を押し付けて自分が気持ちよくなるツールなんちゃうかな?
でも結局、自分の価値観を人に押し付ける事はそのば場で自分は満足するけど、相手には伝わらないんよね。
だって、納得出来ない事が多いから。
あたりまえと思わない
長男の育児をしている時に、僕はちゃんと父親としてちゃんと育てないとと思って礼儀や作法、いわゆる見本のような教育を真似ていました。
でも、結局それって子供には伝わらない。自分が出来てない事を子供にやらせる事は説得力もないし理解もしてもらえない。
例えば
子供やねんから
「ゲームをしてはダメ」「夜更かししたらダメ」「好き嫌いしたらダメ」
「そんなんあたりまえです」
と言った一方で
「お父さんはピーマン嫌いだから食べないよ」
「お父さんはゲームが大好きだから徹夜でやるんだよ。」
なんて、大人はやっていいけど子供がやってはいけない理由をちゃんと説明して納得させる事ができなければ伝わる訳ないんですよ。
「なんで大人だけ」
お子さんに言われた事ないですか?
子供だって馬鹿じゃないし、子供は親のペットでもない。子供は子供なりに自分の意志でちゃんと考えてる。子供の考えや価値観は自分とは違うと理解して接してあげる事が大事。
そう気づいたのは3人目の子育てをしてから。なので長男には窮屈な思いをさせたなーと今は思います。でも子育ても初めから上手くできる訳ないし、これはこれで良かったと思う。
だから僕は今「あたりまえ」って言葉を使わないようにしている。あと「絶対に」って言葉も。
自分の価値観は自分のもので、共有しても押しつけない。
いつでも、誰にでも色々な可能性があるのに、「当たり前だから」と窮屈にさせる言葉を使うのは自分にとっても相手にとってもマイナスしか無いと僕は思う。
トモダチナラアタリマエー