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「世界」は誰が作ったの?

言い訳的な話

以前に投稿したこの記事この記事のつづきです。

「葬送のフリーレン」の魔法に関するセリフから、ファンタジー系の作品に関する魔法について、ブツブツと考えている金はないけど妄想する時間は結構ある中年後期の僕ですが、さらに魔法というものについて深掘りして考えてみたいと思います。

一応断っておきますが、一連の投稿は「葬送のフリーレン」の世界の考察ではなくて、それを含めた作品に多くありそうな魔法というものについての考察というか、妄想というか、そういった類の戯言でしかありません。

ただ、何かその手の作品を作る際の、何かのフックにでもなればと思って、とりあえず誰かの目に留まるといいなぁ、なんて思って暇に任せて書いています。

誰かの作品のネタにでもなれればいいなぁ……。

詠唱は誰に聞かせるものか?

さて、前回の記事では

  • 「呪文の詠唱は誰かに聞かせるためにしているのか?」

  • 「であるなら誰に向けて詠唱をしているのか?」

  • 「呪文の詠唱が神様に向けてのものなら、何故魔法使いと僧侶の違いは何だろう?」

ってあたりの疑問で終わっています。

今回の記事は、特に三つ目の疑問について考えていきたいと思います。

さて、現実の世界には僧侶(司祭や神官など、呼び方は様々でしょうが)は存在しますが魔法使いと言われる人たちははオカルトの世界以外ではほぼ聞かれないでしょうから、公にはいないと思っていいでしょう。

世の中には複数の宗教があって、神様の在り方も様々で、一概には言えませんが、神様的な存在によって世界は作られたとされていることが多いと思います。

その神様を信仰して、教えを世の人たちに伝えるために僧侶みたいな人たちが存在して、信心深い人たちが良き隣人でありますようにと、世界をよい方向に導くために日々活動しているのだと思います。

つまり、神によって作られた世界の中で、神の力を行使する分には、誰もが納得できるのではないかと思います。

しかし、その世界に神の力以外に、神の力に匹敵するような力が存在するのは、何か奇妙に思えます。

「神の力」以外の力があるわけは?

例えば、魔法使いの魔法や、精霊使いが行使する精霊の存在が、どうして神が作った世界に存在するのでしょうか?

神は何故、自分たちの力以外に、自分たちに匹敵する力の存在を許容できたのでしょうか?

考えられる可能性として、「神の預かり知らないところで、それらの存在を人が見つけ出した」というのが一つあります。

魔法や精霊の存在が、神の管理する世界以外の場所から持ち込まれたとしたら、その技術体系は神の力とは別のものになるでしょうから、魔法使いと僧侶の違いは技術体系の違いと言うこともできます。

次に「魔法とは、神の起こした奇跡を人が再現したものである」というパターンです。

魔法使いは、神の作った世界の法則を長い時間をかけて解析していく過程で、神が起こした奇跡を再現する方法を見出し、それを体系化したものが魔法であるというパターンです。

そうなると、魔法使いと僧侶の違いは、神の力をどの程度理解できているかという割合の差になってくるでしょう。

もう一つ可能性があるとするなら、それは「実は神という存在すらさらに上位の存在が生み出したものだ」というパターンだ。

「『神』のさらに上位の存在」の存在

神のさらに上位の存在が世界を作り、その世界の要素の一つとして神を作り、魔法のような技術体系や精霊という存在を作ったとしたらどうでしょうか。

ただ、残念なことに人間の知覚できる限界が神までしかなかったがために「神が世界を作りたもうた」と勘違いしてしまったが、実は世界はもっと多様性に富んでいて、神の存在はその世界の一部でしかなく、魔法使いは魔法使いの、僧侶は僧侶の知り得たプロトコルによって人智を超えた力を運用するとしたら、そうした違いがあることも違和感がないと思います。

その場合は多神教的な世界観であったとしても、矛盾なく存在できそうな気がします。

ややメタ的でSFチックな解釈になってしまいそうですが、もしそうした世界観の矛盾を回避するには、そんな考え方もアリなんじゃないかなーと。

うーん、書き出してはみたけど、何だか分かりにくい記事ですね。

もうちょっと分かりやすくまとめた方がいいかなぁ……。

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ただのいそじ
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