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僕と画像生成AIと新たなる気づき

数日前の話

職場で休憩中にnoteをダラダラと読んでいたら、画像生成AI絡みの記事で、二つほど気づきを得たというか、刺激を受けたんですよね。

これまで僕は「画像生成AIでnoteの記事に彩りをつけたい」程度の気持ちで利用をし始めて、Twitterやnoteに書かれている様々な意見を読みながら、僕なりのスタンスでAIの力を借りながら、それでも一方で一抹の後ろめたさを感じていたのも事実で、この後ろめたさの正体を探りながら日々AIの力を借りていたんです。

僕の中の「後ろめたさ」

一つは、AIによる画像の生成が、一種のチートのように感じられていたんです。
僕はそれまで、そこまでプロンプトを吟味するような使い方をしていなかったため、平文のプロンプトとも言えない文章を「お題」と称してAIに入力して、生成された画像をいわゆる「撮って出し」の感じでサムネイルに利用していたんです。

なので、「こんなに簡単に質のいい絵を生成できるなんて」と、後ろめたい気持ちになっていました。

確かに人体の理解が甘いせいもあって、指が多かったり関節がおかしかったりする絵もあるんですけど、それでも僕が描くよりも遥かにいいものが出来上がるし、しかもそれが一分かからずに四枚も出来上がるんですから、僕の中では「こんなのチートなんじゃないか」とも思ったんです。

もう一つは「オリジナリティ」でした。
プロンプトを吟味して、自分なりの作品を求めていったとして、様々な過去の作品から学習をしていくAIの仕組みからは、本質的なオリジナリティを導き出すのは難しいだろうと思ったんです。

Twitterが普及してきて、一部の人たちが声高に取り上げるトレパクなどの疑惑がありますが、過去の作品から学習し続けることを宿命づけられるAIが描く作品というのは、その手の人たちからは延々とパクリ疑惑をかけられるのではないと、要らぬ心配をしてしまうのです。

自分が苦労して導き出したプロンプトから、何度も何度も試行してできたお気に入りの一枚が、外部のノイズに晒されて、良くないバイアスをかけられて不当な批判を受けるというのは、なんというかとても残念なことに思えました。

そうした「後ろめたさ」もあって、画像生成AIと僕との距離感が、未だに中途半端で、利用していくにしてもあくまでサブ的に「ZINEの挿絵」程度が僕の中では限界なのかなと考えていたんです。

オリジナリティはディレクターの領分

で、そんなことを鬱々と考えていた時に、この記事に出会いました。

僕は勘違いをしていたんですね。
AIはあくまで画像を出力する道具であって、オリジナリティを担保するのは使い手である僕自身で、僕のディレクションがオリジナリティを創り出すのだということに、この記事を読んで気がつきました。

AIを利用しても、オリジナリティのある作品と呼ぶに値するものは創造できることを、先ほどの記事を読んで、公開されている作品を見て、思い知らされました。

鳥肌の立つようなカッコ良さ、いいものを見せていただいたと思いました……。

この時、画像生成AIと真剣にお付き合いしたいなと思ったんですけど、財力が足りないので、しばらくはPixAIでプロンプトを探る活動が続きそうです……。

歴史的経緯から見れば

そして「AIの利用にチート感がある」という、もう一つの後ろめたさは、こちらの記事で解消されました。

……確かにそうなんです。

大昔に美大を受験して、見事に不合格になった僕も、かつてはフリーハンドで直線を引く修行に日々取り組んでいました。

まあ、遥か昔の話なので、今では説明のためにボンチ絵を描くにも苦労するぐらいにブレブレの線しか描けませんが、デザイナーたるものフリーハンドで直線が描けるようでなければダメだという価値観が当時(四十年近く前)はありました。

でも、その後の流れから考えたら、そんな価値観は消えて無くなり、デザイナーがコンピュータを使うのは当たり前になっています。

それどころか、写真や動画の世界も、コンピュータの利用が前提になっていると考える人もいて(僕はそう考えています)、僕がデザイナーを目指してデッサンのトレーニングをしてた頃から考えたら大きなパラダイムシフトが起きていたわけです。

美大受験でコケた僕が、その後に潜り込んだデザイン系の専門学校で、講師の方々が「コンピュータでデザインする時代になったとしても、デッサン力は必要だと」常々言っていたいました。

「だから常にデッサンのトレーニングをしなさい」と。

確かに略図を描くにしても、全体的な形を把握して図版に落とし込んでいく作業には、部分的にはデッサン力(もしくは観察眼)が求められるものですが、自ら直線を引く技術は不要になりつつあります。

人によっては、そのトレーニングよりも、如何にして立体的構造を見抜き、記憶に落とし込んで、モニター上で再現できるかが重要になってくるでしょう。

そして、その先は技術よりも感覚が求められる時代が来るように思えます。

先ほどの記事は、そのことを端的に指摘していて、とても興味深かったです。

読後に目から鱗が落ちた経験をしばらくぶりにしたので、仕事中に妄想が捗りました。

一つの宣言

僕はアートAIディレクターになりたい。

画像生成AIの力をお借りして、僕なりの世界観を絵という形で表現したい。

実際のところ肩書きなんてなんでもいいし、そんなものなくてといいのだろうけど、この年齢から何かに取り組もうとする覚悟を肩書きにしたかった。

画像生成AIだと、ちょっと呼びにくいしキャッチーでもない気がするので、アートAIとしてみたが、そこまで外れてはいないと思う。

で、僕だけの力ではどうやっても届かない何かを、どうにかして表現したい。

そのためには、やらなきゃいけないことが山ほどあって、クリアしなければならないことも多々あるんだけれど、まあ、それはやっていくうちになんとかなるだろう。

どこまで行けるかわからないけど、まあ、行けるとこまで行ってみたい。

画像生成AIについての懸念をお持ちの方へ

新しい概念、新しい文化、そして新しい技術というものは、時に多くの批判を受けるものです。

その中には批判されて然るべしなものもあるでしょうが、それでもそれらの評価は不当であってはならないと僕は思います。

つまりは、流言に基づくような評価による過剰なバッシングや、関係者への誹謗中傷などは、謹むべきなのです。

もし、この記事を読まれたあなたが、画像生成AIという存在についての、何かしらの違和感や懸念を抱いていたとしたら、今回紹介した二つの記事に目を通していただいて、自身で考えてみて欲しい。

その上で判断して、画像生成AIによる創作活動に何かしらの興味を持たれたのなら、外野の声は一旦無視して、実際に試してみればいいと思う。

そうしてチャレンジした多くの人たちの上に、その先の表現の未来が創造されていくのだから、その一助になれるのなら、それはそれで僕は面白いと思うが、皆さんはどう思うだろうか?

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ただのいそじ
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