画像生成AIとチューリングテスト
※ サムネに深い意味はありません。
こんなnoteの記事を読んだ
先ほど仕事から帰ってきて、最近あまりじっくり覗くことができていなかったnoteを見てみたら、何の偶然かその記事が真っ先に目に入ってしまって、思わずこの記事を書き始めてしまったんですが、まあなんというか残念だなと思ってしまったんです。
あまりじっくりとは読めていないのですが、その方は「人の描いた絵が見たい」そうで「AIの描いた絵は飽きた」んだそうです。
その方の記事には、その違いだとかには触れられておらず、どこを見て何を根拠に、絵の作者がAIもしくは人なのかを見分けているのかという、肝心なロジックの部分は書かれていませんでした。
そこがとても残念に思えるし、その先に透けて見える考え方も、僕には残念に思えてしまったんですね。
画像生成AIにチューリングテストは必要か?
時々見かける意見なんですが、「AIの絵だから◯◯だよね」みたいな画像生成AIを下げるような主張がありますよね。
でも、元々は様々な人の描いた作品の情報をAIが分析して獲得していった画風なり描き方なのですから、善し悪しをきちんとAIに伝えることができていたら、そこまで人との差は大きくはならないと僕は思うんですよね。
むしろ、それを人が描いたのか? それともAIが出力したものなのか? という部分を誰がどこまで担保できるかなんてのは、なかなか難しい話なのではないかと、個人的には思えます。
例えば、AIが人間の絵を完全に模倣するのは本当に難しいと思うんですよ。
最近、PixAIを仕事の合間に触っている程度の知識しかないんですけど、多分LoRAなんかで似たような画風にはできても、完全にパクるのは難しいんじゃないかなと。
でも、腕のある絵師が本気を出せば、AIの絵を完全にパクることは逆に難しくない。
これはあくまで想像ですけど、世の中に出回っている贋作の絵画の数を考えたら、それくらいのことは想像してしまうわけです。
そこで、ふと「第三者にAIの出力した絵と、そのAIの絵を模倣した絵師の絵を同時に見せたら、判別できるか否か?」というチューリングテストを思いついてしまったんだけど、こんなものはお互いの不幸にしかならないだろう。
いいたいだけ人もいるのだろう
まあ、多くの人は、単に言いたいだけなのでしょう。
最近、人間とAIの関係が対立構造になってきている気がするし、Twitterでも画像生成AI批判をよく見るからね。
その場の流れに乗っかって、描かれている絵の良さ自体を評価することなく、単に「お腹いっぱい」というだけで悦に浸れるのかもしれません(僕にはわからないんですが)。
でも、そこからは何も生まれないと思うんですよ。
「人の描いたものが大切」なら、全部「いらすとや」だとかの素材サイトで借りてこればいいじゃないですか。
言いたいだけなのではなくて、ほんとうにAIの描いた絵に食傷気味になっている人もいるかもしれないけど、それは結局プロンプトを書いている人が偏っているからとも考えられるし、他にも要因はあると思う。
まあ、Not for Meであったと思えば嫌な気にもならないと思うんだけど、どうだろうか?
僕の本音
Threadsで愚痴ったことなんですけどね。
画像生成AIと絵師を対立させたい人が一定数いて、そうした人たちの言葉によってお互いが嫌な気分になっている気がするんですけど、お互いに相手が持っていないものを持っていることに気がついて、お互いがお互いを評価し合えば、よりよい関係性が生まれる気がするんですよね。
絵師の方もAIがプロンプトから捻り出した一枚に感銘を受けるかもしれないし、そこから生まれる作品だってあると思うんですよ。
画像生成AIを使う側の人は、絵師の描いた感動の一枚に追いつきたいと日々頑張っている人もいるでしょう。
お互いがお互いを知って、より高めあえれば、いい関係性が生まれそうな気がするですよね。
「画像生成AIの描く絵なんてお腹いっぱい」なんて思ってる人には、かつてBASICで何百行にも及ぶプログラムを書いて、「うる星やつら」のキャラクターをモニターに描き出していた人たちの苦労を知っていただきたいものです。
あれから40年近く経った今、AIの描く絵にケチをつけるだなんて、本当に贅沢になったもんだと、僕は呆れてしまうのです。
そんなことより、もっと楽しめばいいのにね……。