やっぱり僕は絵を描いてない
画像生成AIで、自力でなんとか画像素材を調達できるようになったのはありがたいんですけどね。
でも、これ、勘違いしちゃいけないと思うんですよね。
書いているのはプロンプト
僕がiPhoneをポチポチする。
画像生成ボタンをタップする。
広告を見る。
そして画像が出来上がる。
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この繰り返しで、様々な画像が出来上がるのは、絵の描けない僕からすればとてもありがたいし、すごいことだとは思う。
でも、僕が書いているのは、あくまでプロンプトの方であって、絵ではない。
プロンプトをいくら吟味して調整しても、シード値を変更しても、画風を適したものに変更し直したとしても、僕がしていることは、絵を描いていることではなくて、アプリの操作でしかない。
つまり、僕は絵師ではないのだ。
あくまで、アプリに画像を作ってもらってるだけで、自分の画力に支えられた「絵を描く」という創作活動ではないわけだ。
これは勘違いしてはいけない。
画像生成AIを通じて絵師の凄さを知る
画像生成AIさんは、僕みたいな絵心のないポンコツにも、広告を見るくらいのコストを支払えば適当なクオリティの画像を提供してくれる。
これについては本当にありがたいと思う。
プロンプトを介して画像生成AIとコミュニケーションを取るのは面白いし楽しい。
「お、そう来たね!」
「なんやコレw」
「かわいいねぇ!」
「足の向きがへんだなぁ」
「お、ナイスヒップww」
「指が一本足らんwww」
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気がつくと時間が溶けてる。
楽しい。
楽しいから、僕自身、自分のしていることが「絵を描いていないこと」なんて、どうでもよくなる。
でも、そこにこだわる人は一定数いるのだろう。
故に「AI絵師」なんて自分を呼ぶ人もいるのだろう。
でも、実際に画像生成AIを触ってみた僕の感想としては、僕がしている行動は、「絵を描く」ことではないんだよね。
だって、自分で線の一本も描いていないんだもん。
それで絵師は名乗れないよ。
画力の差こそあれ、自分で線を引いて、自分の力で絵を描いていく人たちの技術を、画像生成AIを利用することで改めて思い知ったわけだ。
呼称にこだわるのは羨望の感情の現れか
まあ、名乗るのは自由だし、好きにすればいいのかもしれない。
でも、僕がこの先努力して、画像生成AIをもっと自由に使いこなせて、ポーズの違和感や単純なミスを乗り越えて、よりクオリティの高い絵を生成してもらえるようになったとしても、自分のことを「AI絵師」とは名乗らないと思う。
だって描いてないんだもん。
描いてないのに描いている人と誤認されそうな肩書きを使うのは、なんというか失礼な話だ。
あえて言うなら、画像生成AIに指示を出したり監修をしているから、「AI画監」みたいな他になさそうな呼称を考えると思う。
あえて絵師という言葉にこだわるのは、コンプレックスの現れなのかもしれないけれど、だとしたら、それは不毛なんじゃないかなと思ったりする。
こんなに楽しい行為なのに、ただでさえ面倒臭い状況の中で、ネガティブに語られる要因を増やすのは、なんと言うか残念な話だなぁ……。